しやけのドイツ箱 日記(2000〜2002年)
1997-99|2000-02|2003-06|2007|2008|2009|2010
●甲虫学会・鞘翅学会・合同大会を終えて(021124)
●FA宣言(021102)
●何日君再来(021005)
●南アルプス鳳凰山紀行(020726-30)
●10年目の夏(020809)
●カーボニフェラス・パーク〜石炭紀公園(020706)
●世界の中の長居〜ワールドカップ大会によせて(020606)
●M君のハッピーウェディング&阿蘇の旅(020604)
●虫へん漢字Tシャツを本格販売へ(020526)
●人生って独楽(こま)(020520)
●特別陳列「朝鮮半島と日本列島の自然」がオープン(020520)
●幻覚で虫を見る(020502)
●湖南アルプス(020423)
●今年度3回目の主催展!(020311)
●9年後の北大(020308)
●新しい秘書を迎えて(020302)
●最近のランキング2002(020131)
●初開催!研究計画ゼミ(020121)
●2002年をむかえて(020104)
わが国には甲虫類の主に分類を扱う学会が2つある.大阪を中心とした甲虫学会と,東京を中心とした鞘翅学会である.扱っている材料の上でも,合併をするか否かなど,諸問題が持ち上がっている.
鞘翅学会が大阪で大会を開きたいということで,甲虫学会と合同大会にするという条件で,勤務する博物館で引き受けることにした.両学会の諸問題うんぬんは全て抜きにして,同じテーマで研究している人たちが集まって交流することの意義は非常に大きい.その最初の試みという大きな重責を背負って,大会の段取りをすすめていった.
しかし,実際の運営というものは大変なものだ.大人数の参加者(結局170人ほどの参加者があったようだ)を実行委員16人とアルバイト6人の組織の中で動かしていくのであるが,役割分担をしながら,個々のプログラム,懇親会,分科会の段取りを確認して進めていく作業は,外見よりも非常な労力がかかるものであることを知った.実行委員会で分担をきちんと決めた(つもりだった)のだが,22人という人数がいると,担当をきちんと全うする人,それ以上にやってくれる人,能力的に?あるいは時間的に一部できなかった人,分担を無視して全然やってくれない人,さらには他人の担当部分に乗り込んで仕切りはじめる人までが現れ,人は実に様々であることを深く思い知った.
このことは会社や地域社会など,どんな組織に限らず,人間世界すべて共通であって,まるで社会の縮図を見たようで,まことにいい経験になったと思っている.しかし実際問題,大変だったのは,そのような「やってくれない」人たちのフォローを,私自身が全面的にせねばならないことであった(時間がある仕事なら別だが,今回は短期決戦の学会である・・・).
でも,「日本の甲虫研究史上で,歴史に残る大会だ」などという声が出てきたりすると,開催してよかったなぁとつくづく感じている.
私自身は実際に体を動かすというのでなく,段取りを考えて指示を飛ばすという役割,しかも2日(前日準備会も入れると3日)という間にあらゆることが殺到する状況だったので,大会終了とともに思考回路が麻痺し,正気を取り戻すのに3日ほど時間がかかった.ハイテンションを通り越して,一種のトリップしたような心理状態も,ふつうには得難い経験だろう.
野球の話で恐縮だが,巨人の松井選手がFA宣言して米大リーグへ移籍することになったようだ.プロに入って10年間,日本でひと仕事し,実績をひっさげ,区切りをつけていざ,という心境だろう.
このようなニュースが流れて,ふと思い出したのには,私も松井選手とおなじ社会人10年目であることだ.1〜2年目のころは,松井選手と自分(6年ぐらい年上だが)の年某の比較などをしていたが,その後はそんなこともすっかり忘れていた.
そのころにはちょうど,野茂英雄投手(同い年)の大リーグ移籍や,同年代の知り合いが北米の研究施設に武者修行に行くという話を聞いたりして,当時すでに夢のない生活を送っていた私には,非常に刺激的だったことも思い出した.かといって,何もアクションは起こさなかったのであるが.
折しも最近,別の同年代から,サラリーマン生活をやめ,会社を創設したという便りが届いた.
♪会社を興したやつがいる〜♪
私もFA!などと高らかに宣言してみたいところだが,これはやはり実績が伴わないと難しい.松井選手の場合は1軍150日を9年間という基準をクリアしてのFA権取得であったが,私はいったいこの10年,何日間1軍で試合しただろうか.周囲の評価はきっと低いだろう.
でも真の評価はどこかで誰かがしてくれているに違いない,と田中耕一さんのノーベル賞受賞ニュースをみて思ってしまった.
いや,そう思っている自分こそ,甘いのかもしれない.
インターネットの普及に加え,ワールドカップサッカー日韓共催(6月),日中国交回復30周年,昨今の北朝鮮事情など,東アジアはいよいよボーダーレスになってきたという印象である.この時期,昆虫分類学若手懇談会(私とM君が事務局担当)で日本昆虫学会の小集会の折り,「ボーダーレス時代の東アジアの昆虫分類学」というテーマでシンポジウムを開催することにした.東アジア各国の昆虫分類学事情や,今後の共同研究の可能性などについて紹介してもらい,昆虫分類学を国境のない科学(=本来の姿)に何とか近づけようというものである.
韓国については留学生のAさん,ロシア極東については共同研究の実績のある某博物館のKさんに頼むことができたのであるが,中国については話題提供をしてもらえる人がなかなか見つからなかった.テーマ上,やはり中国からの話題提供は欠かすことができないので,思い切って中国本土の北京からY氏を呼ぶことにした.しばらく前からメールで情報交換などをし,知り合いの大先生も業績に高い評価をしている人物である.30歳代ながら所属する研究所の所長を勤めているそうで,本当はアメリカからの来客などもあったらしいが,忙しい日程を変更して日本へ来てくれることになった.
しかし,招聘を決めた後も困難はつづいた.中国人には一般に不法に滞在したりしている人が多いためか,中国人を日本に招待するには外務省のややこしい手続きがあって,ビザ取得のために資料や書類をそろえたりするのが結構面倒だった.
無事にビザもおり,来日の日には関西空港へ迎えに行ったあと,大津の自宅にも泊まってもらったりして親交を深めた.富山大学のシンポでは「中国における昆虫分類学の歩みと現状」と題して講演してもらったが,非常に簡潔でわかりやすく,かつ豊富なデータで講演してくださり,わざわざ来てもらった甲斐があったと感じた.シンポ終了後の懇親会では「東アジア昆虫分類学ネットワーク」などという大規模な組織のアイディアなども出されていたが,決して夢物語ではなく,現実的に十分可能な時代に来ていると感じている.
その後はフィールド調査に出かけたり標本調査をするなどしたが,30歳代同士で親交を深められたのは,今後の双方にとって有意義であっただろう.氏は今回,日本は初めてだったようで,またいつか来たいとのことであった.また私もチャンスがあれば,北京に行きたいと強く感じた次第である(北京には1997年に行ったことがある→こちら).
日本甲虫学会と日本鞘翅学会の2002年度合同採集会は,5年目の今年も昨年にひきつづき,7月下旬に鳳凰山の麓の御座石鉱泉で開催された。昨年参加できなかった筆者にとって,天気にも恵まれたこともあり,たいへん楽しく,また充実した採集会となった。
7月26日(土)の夕刻,韮崎市内からのダートの悪路を奮闘の末,やっとの思いで宿舎に着くと,参加者諸氏はすでに周辺での採集を終え,汗を流しに温泉に浸かる人,早くも虫談義に花を咲かせる人,一足早くビールを手にする人,などなど,夕暮れの湯沢を見下ろしながら,思い思いの時間を過ごしていたようすであった。
夕食では13人が顔を合わせ,一人一話が始まった。N氏はすでに広河原から鳳凰三山,鳳凰小屋を経て,この御座石鉱泉へ下って合流されたそうだが,どうやらこの翌日に鳳凰小屋まで上がろうという人は筆者を含めて3名だけのようだ。宿の女将さんから,銘々に果実酒のお土産をもらい,ライトトラップと虫談義をしながら,標高1,100mの涼しい真夏の夜は更けていった。
翌朝,朝食と全員の記念撮影の後,解散。ほとんどの参加者は帰途についたようであったが,午前8時過ぎに,世代のまったく異なる3名が鳳凰小屋へ向けて出発した。虫寿を超えたM氏,まだ10代のY君(信州大学1年生),そして30代ながら体型は40代の筆者である。西平から旭岳を経て燕頭山(ルビ:つばくろあたまやま)(標高2,105m)へ至る部分が急坂の連続で,汗が噴き出し,息切れのするもっとも過酷な直登であった。しかし,そこを過ぎると,時おり吹く涼しい風を感じながらの尾根歩きで,叩き網やスィープなどで採集しながらでも,午後4時までには鳳凰小屋(標高2,380m)に到着し,虫屋のH氏ら小屋のスタッフに温かく迎えてもらった。細い丸太で作られた炊事場ではイケダシラホシヒゲナガコバネカミキリMolorchus
ikedai Takakuwaがたくさん発生しており,カミキリ採集の下手な筆者でも簡単に採集することができた。
翌29日(月)は,いよいよ鳳凰山の高山帯での踏査であった。筆者にとって最大の目的は,ダイモンテントウCoccinella
hasegawai Miyatakeである。この中部山岳高山帯の稀種も,鳳凰三山の最高峰・観音岳(標高2840m)付近のハイマツで,無事に姿を見ることができた。他にも高山帯特有の短翅のシリアゲムシなども見られ,充実した気持ちで山を下りることができた。翌30日(火)夕刻には,3人とも無事に御座石鉱泉に下り着いた。
(この紀行文は「月刊むし」誌上で紹介した文章を一部改変したものである.)
ダイモンテントウ Coccinella hasegawai Miyatake 中部山岳の高山帯のみに生息する稀種のテントウムシ.日本に分布するCoccinella属4種のひとつで,ハイマツにつくアブラムシを食べると言われる.和名は逆さまにすると,漢字の「大」に見えることに由来する.以前は「チシマテントウ」の和名もあったが,千島列島(択捉,ウルップ)のものは別種らしい(ロシア人研究者による). |
私がこの大阪の博物館に勤務するようになったのは1993年4月で,実は今年が10年目である.この間,実にいろんなことをやってきたと思う.(自然史博物館での系譜はこちら).はっきり言って,めちゃくちゃ早かった.
博物館では最大のイベントの特別展が夏にあり,ほぼ毎年のように関わっているから,調査対象の昆虫の活動時期である夏に十分な野外調査ができないことが,大きな悩みのタネであった.
10年目の今年の夏は思い切って,3つの遠征をすることにした.しかし,そのためには学芸課内のオフィシャルな役割分担を断ったり,行事や会議に参加しなかったり,質問電話の鳴りやまない博物館から逃れる(=誰かに迷惑がかかっている)など,他の人たちに大きな犠牲を強いなければならなかった.というか,こういう形をとらないとまともに野外調査ができないこと自体が問題なのだが・・・・・.それに,旅費もほとんどが私費で,休暇を取っての調査である.(何ちゅうこっちゃ!)
遠征は1回目(ロシア沿海州1週間),2回目(南アルプス鳳凰山)はすでに終了した.どちらも天候に恵まれ,わりと十分に調査ができたように思う.また追々,論文の形で報告することになろうと思う.やはりフィールドサイエンスに携わる者は,こうでなくてはならないと実感した.
10年目の夏の遠征,残るは3回目(北海道・道東地方)だけとなってしまった.よい天気とよい成果を期待したい.
南アルプス鳳凰小屋(標高2,380m)の近くから見た富士山.
今年の夏の特別展は植物化石がテーマとなった(こちら).T学芸員の担当である.今年は関係がなさそうだ・・・と当初は思っていた.
ところが,いくつか昆虫化石を扱った展示コーナーがあるのみならず,何かアミューズメント系の展示を作ってほしいと頼まれてしまった.昨年のトロぴかる(関連記事はこちら)の実績を買われてに違いない,と勝手に気をよくして,実現の可能性を度外視して,イメージをどんどん膨らませていった.
退屈な学芸会議の間にいろいろレイアウトを考えいくうちに,やがて方向性が固まった.題して「カーボニフェラスパーク」,もちろんスピルバーグ作品の映画「ジュラシックパーク」のパクリであるが,それよりも約1億年さかのぼり,約3億年前のシダの森を実感してもらおう,というコンセプトのものである.
さらにクイズMリオネアの真似をした部分があるほか,そのクイズそのものも「カーボニフェラスパーク・ザ・クイズ」と題するなど,よく言えばパロディ?,悪く言えばパクリの要素のふんだんに盛り込んだ展示コーナーとなった.
メクリ部分に作り込みが必要だったり,高さのある大規模な展示(高さ7mのリンボクの模式図をたてた)だったため,最後はやはりT工務店や,N鳶職(?:高所作業が苦手な小生に助け船を出してくれた)にいろいろ面倒をかけてしまった.
何とか前日(といっても,もちろん日が暮れて何時間も経ってから)完成した.予算と時間が限られていて,いろいろ反省点もあるが,まぁ今年も初宿ワールドをつくることができて,何か妙に達成感に満ちている.
来年こそはお休みかな?
カーボニフェラスパーク
●世界の中の長居〜ワールドカップ大会によせて(020606)
自然史博物館は長居公園内にあり,サッカーや女子マラソンで有名な長居スタジアムとは目と鼻の先の位置にある.セレッソ大阪のJリーグの試合はいつも閑古鳥が鳴いているが,日本代表の国際試合などでは超満員になることもしばしばあり,残業をしながら「うぉ〜〜」という大歓声をサラウンドで聞くという不思議な観戦方法(?:試合は見ていない)もすることができる.
やっかいなのは,その残業が終わり,いざ帰途につこうとすると,サッカーの終了時間とかち合って,観戦の人たちの大きな波が地下鉄長居駅に押し寄せ,梅田まで座席に座れなかったりすることだ.
さらに腹立つのは,ある時,追い打ちをかけるように,梅田(JR大阪駅)から東海道線に乗ろうとすると,阪神巨人戦の甲子園帰りの人とかち合ったりする(ハッピを着てメガホンを持っているからすぐわかる).休日出勤の仕事帰りの疲れ果てた人が片道2時間近く,遊び帰りの人の波のために,座席に座れなかったりするのである.最近は拍車をかけるように,USJ帰りの人(特有のバックを持っていて,たいていは子ども連れ,電車内がとてもうるさい)にもかち合うことが多い.
しかし,それにしても今回のワールドカップは,これまでになく大きなイベントのようだ.特に,フーリガンと呼ばれる危険なサポーターで知られるイングランドの試合もあって,ベッカムという人気選手も出場することもあり,たくさんの警察官や機動隊員がいて,長居公園内は何となく物々しい雰囲気である.
5月ぐらいから,長居公園内で西洋人を見ると,「もしかしてフーリガンの下見?」などと思っていたが,これは立派な偏見に部類されるだろう.けっこうバックパッカーの若者にも動植物や化石に強い関心を持つ人もおり,中にはずいぶん突っ込んだ質問を窓口でしてくる人もいる.大阪のNatural History Museum (西洋では日本よりはずいぶん一般に知られた言葉だ)ということで,観光案内図でわが館を訪れてきてくれている人が少なからずいるようであり,まことにありがたいことだと思っている.
同僚のM君(昆虫研究室)が結婚することになり,会場の福岡に行った.福岡も久しぶり?とか思ったが,よく考えたら,去年は対馬と壱岐にそれぞれ別時期に行ったので,この博多の駅には去年2度来ている.M君の式の参列はついで(?:失礼)で,本音はやはり資料収集である.去年,念願を果たせなかった阿蘇への訪問,草原性のハナノミの収集である.
とは言いながら,久々にうまいモン食べようと気楽に式に臨んだら,事前のアポなしスピーチ(フランクな式に時々あるやつ)をさせられたりして,ちょっと冷や汗だった.
お披楽喜になったあと,博多駅から特急つばめで熊本駅へ行き,豊肥本線に乗り換える.2両編成のワンマン電車は外輪山にさしかかるとスイッチバックで山を駆け上がり,やがて阿蘇の大平原に入っていった.夕暮れの無人駅からは遙かとおくに高岳,中岳,根古岳が見え,雄大な風景は,まるで北海道に来ているような錯覚を覚えた.国道わきでも,茹で立ての非常においしいトウモロコシ(北海道と同様,「とうきび」と呼ばれている)が売られている.
外輪山の上で,目的の草原性のハナノミやハムシも見つかり,満足感とともに大分からの船で帰ってきた.早朝に神戸につき,そのまま館へ出勤したのだが,当のM君も対馬から門司港経由で大阪南港へ早朝へ帰ってきて,そのまま館へ出てきたという.
一生に一度のことなので,海外とかでもっとゆっくりすればいいのに,と思ったが,僕も結婚当時も何となく慌ただしくすませたようなことを思い出した.若いとそれなりに気をつかうものである(実際,彼はNature Studyの今月の編集担当で,10日発行だ.あぁいそがしい).
Nature Study(博物館友の会月刊誌)の1996年4月号の表紙に使った「虫へんの漢字」は,各方面で評判がなかなかいいようである.近隣の某博物館では,まったく無断で展示に使用されたりもした.まぁ,つきあいもあるし,真似されるというのは一流の証拠なので,こちらも咎(とが)めようという気はない.私のデザインも,ある意味,シャネルやグッチと同じなのである.(これは言いすぎか?)
おととしあたりから,その漢字のデザインをTシャツにして販売を始めていたのであるが,市販の転写シートにアイロンで押さえつけるという,手作業であったため,手間がかかるのと,堅牢度が低いということもあり,思うような生産ができずにいた.白Tシャツに濃い色で印字という,デザイン上の制約も気になっていた.
この度,希望のもてるTシャツ印刷工房に巡り会うことができ,図(イメージ)のようなTシャツの販売を始めることになった.しかし,転写シートとは違って,版をきちんと起こして印刷するということもあり,売れ残りは許されない状況になっている.
というわけで,ぜひ買ってください.よろしくお願いします.遅くとも6月末には販売開始できると思います.サイズはLとMの2種類,値段は未定ですが,1枚2,500円程度かな? メールでお問い合わせくだされば,値段や販売方法が決まり次第,連絡さしあげます.連絡先はshiyake@mus-nh.city.osaka.jpです.
●6月27日,販売開始しました.通信販売も承ります.
Tシャツ代金:1枚2,100円(税込み)+送料(1枚の場合500円,2枚の場合600円,3枚以上は800円)をご送金ください.
郵便振替番号00980-1-317961「大阪自然史センター」.通信欄に「虫へんTシャツ購入希望」と明記し,枚数とサイズ(S, M, L)とお届け先(ご住所,お名前)をご記入ください.
博物館に勤めるようになってからというもの,5月に入ると毎年,やや陰鬱な気持ちに陥り,最近はひどい目眩(めまい)がするようになってしまった.初夏から秋にかけて,博物館の仕事が異常な忙しさになり,それに気持ちが重くなってしまうからのようだ.
とくに土日は9月末まで,普及行事や窓口当番,研究会の類でほとんどすべてが予定で埋まっている状態だ.今年も家庭をかえりみない,「減点パパ」状態になっている.
昨日(19日)も私は彦根市で地域自然誌「芹川」の行事に出かけたが,妻と娘は地元の祭りに行って来たようで,出店で独楽(こま)を買ってきたようだ.
夕食の前に,食卓で独楽をまわして遊んだ.卓上のグラスや茶碗に当たらないように回そうとするのであるが,4歳の娘は回し方が下手なので,どうしても途中でグラスなどに当たって止まったり,卓上から落ちてしまったりする.
私はうまくそれらの間に当たらないように長くまわしつづけられることが多かったが,それでもいずれは寿命がきて,やがては傾いてとまってしまう.
ふと,独楽まわしは人生みたいだと思った.今のところは勢いよくまわっているが,いつグラスや茶碗のにぶつかって(これは単に運が左右する),天寿を全うできずに,回転がとまってしまうかもしれない.
それと,ガンで入院してしまった友人の姿を病院で目の当たりにして,いろいろ考えてしまっていることもあるだろう.早期のうちに対処できたようであるが,「半年遅かったらどうなっていたか判らない」などという診察結果を耳にすると,「人生って何」か,深く考えてしまった今日このごろである.
特別陳列「朝鮮半島と日本列島の自然」がオープン(020520)
ワールドカップと関連して,博物館では「朝鮮半島と日本列島の自然」という展示会が18日に始まった.今回は新しくできた新館のネイチャーホールではなく,本館の特別展示室での開催である.展示予算も特にはもうけておらず,すでにある標本や写真を展示し,ポスターも手刷りという地道な展覧会である.
昆虫部門は斜面ケース4台の担当であったが,うち蝶蛾類を除く昆虫類の2台(ドイツ箱12箱)を受け持った.ここで見どころを紹介しておこう.
アオカブリモドキ(Carabus (Coptolabrus) smargani):実にうつくしいオサムシの一種.朝鮮半島では済州島も含め,全土に分布する.
ノコギリヒラタコガネ(Scarabaeus typhon):いわゆるスカラベ(タマオシコガネ)のなかま.韓国ではレッドデータもの.
チョウセンツノコガネ:竪琴のようなツノのあるハナムグリ.グレーの体色が渋い.
チョウセンクマゼミ:日本のクマゼミに近縁だが,オスの腹弁が褐色部をともなうことで異なる.鳴き声も「ぎ〜〜」とエゾゼミのようで,まったく異なる.
トホシセマルオオハムシ:テントウムシのような模様をもつハムシ.ブドウ類につく.神戸付近に分布する中国原産のキベリハムシに近縁.
昨年夏のロシア沿海州訪問時に,韓国に立ち寄ったので,そのときに録音したセミの鳴き声の紹介もしている.韓国は距離が近いようでも,セミの鳴き声はずいぶん違っているのである.博物館の職員からは「うるさい」と不評だが,来館者にはそうでもないらしく,きちんと聞き耳たててご覧になっているようだ.(「鳴き声比較」は毎日新聞6月11日朝刊「雑記帳」(西日本に配信),毎日新聞6月13日大阪版,NHKラジオ6月17日(生中継),毎日放送ラジオ「情報ラヂオ スパイス」6月25日(生中継)で紹介されました)
博物館には,しょちゅう質問の電話がかかってくる.自然史分野全体の中では,おそらく虫の質問電話が最も数も多く,かつ多様なのではないかと思う.
質問してきた人の手元にある虫の,大きさや形,色などから,電話だけで想像をたくましくして,何の虫かを予想し,こちらからもその虫の特徴を示す.相手の「そうです,そうです」の声で,種類を特定する.そして,その対処方法(毒の有無,退治の仕方や飼い方,その注意点などなど)を伝える.なかなかの職人技だと思いませんか?
今日も,「家の中に虫がいるのですが・・・」という電話がかかってきた.しかし,いつもと様子がやや違う.「部屋の隅のほこりが動きだす,窓を見ると網戸に虫がびっしりついている,パイナップルを切って食べようと思うと,上に虫がついている」というのだ.
ご自身はパーキンソン病を患っているとのことだったが,深刻な声の電話を聞きながらインターネット検索で調べてみると,この病の薬の強い副作用に,虫が這う幻覚を見るというのが実際によくあるようなのだ.
ウェブサイトには「本人の言うことをあまり頭から否定せず,対処すること」などと書かれていたので,そのように心がけた.世の中にそのような幻覚が実在し,それに悩まされている人がいることは,まことに勉強になった.今までも,すこし様子の変な電話を受けたことがあったが,同様の電話だったのかもしれない.
友の会発行の「自然観察地図(北大阪編・南大阪編)」は,販売開始から1年がたった.非常に好調な売れ行きだ.編集担当としてはこの上ない喜びなのであるが,友の会会計関係者からは「決算では予めこれぐらいの収入は見込んでいたから,当然だ」などと言われてしまった.前回版からドル箱であったのは事実だが,努力の報われない悲しい思いをしている.
これら2編に続いて,府外版の制作にとりかかっている.また編集担当に指名されてしまった.編集担当とは聞こえがいいが,要するに野外調査や原稿取り立ての尻叩き役である(関連記事はこちら).
とりあえずは編集担当から率先して姿勢を示さないと,というわけで,担当部分の湖南アルプスに2回にわたって出かけた.幼いころに行ったことがあるが,物心ついてからは初めてである.自宅からバスに乗って数十分で登山口までついてしまう.身近な山であると実感した.
まだ季節が早いことと,元ハゲ山(=東大寺や石山寺の造営に,この山の材が大量に使われたらしい)ということもあって,見るべき昆虫もない山だ.水晶など鉱物には魅力が高いのと,ハイキングコースとしては人気のようで,平日でもそこそこのハイカーがこの山を歩いておられる.ネットを手に持ち,毒ビンを腰に提げた私の姿は異様なようで,すれ違うたびに「何してまんねん」と声をかけられる.「虫を調べてます」と答えて毒ビンの虫を見せるのだが,「変なことをしてますなぁ」と立ち去られる方が多いようだった.
大石方面へ下山すると,国道沿いでサルの群が私を迎えてくれた.彼らもネットを持つ私を奇異な眼で見ていたようだ.
大石のニホンザルの群れ |
ネイチャーホールができたということで,今年度は張り切って(?)6回も特別展を開催した.といっても,うち3回はよそで制作された展示を巡回したものである.私たち学芸員の日頃の研究成果と,オリジナルなアイディアを展示する(=制作に多大な労力が必要)主催展は残りの3展であった.
●「50周年だヨ!標本集合!!」(主催展1)
「牧野富太郎と植物画」(巡回展1)
「からだ不思議・展」(巡回展2)
●「レッドデータ生物」(主催展2)
「木とのふれあいワールド」(巡回展3)
●「世界の蝶と甲虫」(主催展3)
こうして見てみると,私は3回の主催展にどっぷりと関わってしまったことになる.いよいよ3回目の主催展(世界の蝶と甲虫)の準備が佳境を迎えた.頭の中は他のことが一切,考えられない状態に陥っている.それにしても,1年のうちに3回も特別展を経験するとは・・・・(1回の特別展を開くのに必要な労力は,見かけよりも非常に多大なものだ.博物館に勤めないとわからないと思う).「若いうちの苦労は・・・・」などというが,はっきり言って限度を大幅に超えていると思う.
ところが,こんなにがんばっているのに,どうやら主催展の「入り」は芳しくないらしい.でも,展示会の評価は入館者数だけでなされるものではないのは明白だ.広報など他の要素がむしろ大きい.
某航空会社の宣伝にあおられて,札幌に行くことにしたのは1月のころだった.「片道どこでも1万円」というやつである.ちょうど執筆中の論文の関係で,どうしても標本を見ておく必要のあるのがあったので,北大へ行くことにしたのであるが,帰りの切符をおさえておきながら,仕事のやりくりで日程の確定できないうちにキャンペーンが終了してしまい,行きの切符を取り損ねてしまった.3万もする通常料金を払うのはバカらしいので,フェリー(敦賀−小樽)をひさびさに利用して,北海道へ入った.年に1回だけ認められている調査旅行は,今年はすでに調査出張で対馬へ行ってしまっているので,今回は私費・休暇での仕事である.
札幌へは北大を卒業してから3回目であるが,まともな標本調査は初めてである.最近になって中根猛彦コレクション(ハナノミのタイプを多数含む)が入ったとのことで,それが主目的での訪問である.
教室の学生は,同時期を過ごした人はもう一人しか残っていないが,教室の雰囲気はほとんどそのままで,とてもなつかしい.2日間という限られた時間の中で標本調査をしたのであるが,現教授や当時からおられる事務官のおばちゃんらと談笑したり,教室の学生を交えて飲みにいったりして,時間があっという間にすぎてしまい,最低限(さしあたって論文を書くための調査)のことしかできなかった.たまたま,リタイアした教官もボランティアで標本製作に来られていたりして,9年前にタイムスリップしたかのような錯覚をしてしまった.
今の生活はゆとりのない毎日で,自分を見失いかけることもしばしばだが,9年前に立ち返ればバカらしいと思えることも少なくない.こういう原点の見直し方もあるもんだと実感した.
以前から使っているノートパソコンが,いよいよ寿命のようだ.1998年に購入し,毎日持ち歩いていたヤツである.1999年のヨーロッパも2000年の韓国も,2001年のロシアも同行した,私の「私設秘書」とも「主任分析官(!)」とも「ムルワカ君(!)」とも呼ぶべきヤツだった.彼とともに,どれほど一緒に仕事をしたことだろうか.大津から往復3時間以上の通勤時間のある私にとっては,とても重大な存在だった.
11月半ばから蝶つがい部分がバカになり,手で押さえながらそのまま使っていたところ,12月半ばからはついにディスプレイ部分に信号が行かなくなってしまった.それでも外部モニターを使って,自宅で使用していたのであるが,ついにハードディスクが壊れてしまったようで,再起不能となった.
しばらくは館の共用のノートパソコンを使用(=私用)していたのであるが,同僚らから有言無言の圧力がかかってきて,ついに大枚をはたいて新しいノートパソコンを買わざるを得なくなってしまった.
それにしても,コンピュータの世界ほど,日進月歩を実感するものはない.前の秘書に比べて,体重は半分,能力は数倍である.使いこなせない機能もいっぱいついているようで,慣れるまで時間がかかりそうである.前の秘書には時々,裏切られて大事なデータを失ってしまったりしたが,今度の秘書にはそのようなことにないよう,お願いしたいものである.
昨年(こちら)にならって,今年も最近のランキングを発表しよう.
バッチコンテストで3位入賞作品.本当は直径2.5センチの小さなバッチ. | |
Tシャツコンテストで優勝(同率)作品 サッカーワールドカップをテーマにした. |
わたしたち学芸員はここのところ,異常なまでの雑用に終われ,研究活動がどうもおろそかになっているというのが共通認識になっている.
昨年末にS学芸員(キノコ)やT学芸員(植物化石)と飲みながら,もう少し研究のほうを真面目にできるような形にしたいねぇと話していたのであるが,その中で「年の始めにその年の研究計画を発表する,というのはどうか」ということになった.大学院生のころは年度始めに当たり前のようにやっていて,教官や先輩らからツッコミが入ったりというのがあったのだが,そのころを思い出してやってみようというものである.
そのゼミが今日,行われた.各自持ち時間10分以内で,それぞれが今年の研究計画を述べた.計画を箇条書きにしてOHPに映すというスタイル(言ったことの証拠が残らない!)の人が多かったようだが,中にはきちんと図表入りで資料のコピーを配布する人もあった.もちろん,「忙しかった」だの何だのといって,何も用意せずに口頭だけで計画を述べた人もいた.そういう人に限って壮大な計画を述べたりしたりで,とてもおもしろかったのが率直な感想で,建設的な企画だっただろうと思っている.
私自身は,今年まとめることにしている論文の内容とフィールドの遠征計画などを話し,「原著論文を8編(報告書など小さなものも含む),報文数は館内トップを取る」と宣言してしまった.上述の「証拠の残らないOHP方式」だったが,やはり自分自身はもちろん,相互にプレッシャーをかけあうというのも,公立博物館のような研究の刺激の少ないところでは必要なことだろう.
なお,年末には「懺悔ゼミ」というのをやることになっているらしい.すでに計画が達成されないことを前提とした名前だが,そうならないようにしたいものだ.
またひとつ歳をとってしまった.
以前は新年をむかえることは特別なイベントで,小学生のころも無理をして,紅白歌合戦を眠い目をこすりながら見て起きていたものだったが,この歳になると,大晦日に対する感慨は無くなってしまう.「モーニング娘。」を見る前に,早々に眠りについてしまった.
世の中の不況とも関連して最近,自分の来し方行く末について,いろいろ考えるようになっている.博物館の予算は毎年のように削られ,人員配置なども全く理不尽なものがある.博物館に勤め始めて9年,休み無く走り続けているうえに,職務環境も年々,息苦しくなっているように感じる.
私自身の研究活動をとっても,しょうもない虫の研究などして,別にどうなるものでもないと思うようになってきた.ノーベル賞受賞などは,まず選んだ分野からして不可能であるし,またこの経済最優先国家にあっては,経済に貢献しない研究分野は,いつ切られてしまうかわからない.去年訪れたロシアの研究所の状況は,そのような現実性を物語っているように思えた.
最近は,私たちの研究分野(虫の研究,ひいては自然史分野全体)は自然科学などではなく,一種の文化であり,そのような観点で守るべきものであると主張すべきではないかと思いはじめている.
先行きの見えない不安に駆られながら,また1年が始まる.
2001年
●お寒い「トロぴかる」(010905)
●日本海のむこう Over the Japan Sea(ロシア沿海州旅行記)(010808-14)
●海と山のステッピングストーン(対馬紀行2001)(010625-28)(別ページ)
●波賀・赤西渓谷の昆虫合宿(010610)
●祝!情報センターオープン(010508)
●明日がある(010425)
●ほろ苦く沸き上がる特別展の思い出(010419)
●花より準備(010403)
●鳥vs.甲虫(その2)(010308)
●大阪府の甲虫は1,928種(010303)
●「学芸員告白コーナー」(010201)●[omnh 006291] より.
●最近のランキング(010205)
●四万十川を訪ねて(010131)
●初ゆめ蛇(じゃ)〜(010102)
特別展「レッドデータ生物」が8月4日(土)に開幕した.前日はひさびさ,ほぼ完徹(完全な徹夜)だった.朝の8時過ぎに展示がすべて完成したが,何と開幕の1時間半前である.朝になってやってきた掃除のおばちゃんたちにも,この泥縄状態を見られて笑われてしまった.
この展示会で最も力を入れたのが「トロぴかる」のコーナーである.学芸員の間では,「初宿邸」あらため「初宿亭」などと呼ばれているが,ご覧になっていない方には,何のことか,さっぱりわからないことだろう.
3年前(1998年)の特別展「都市の自然」展で,家の造作(初宿邸)の中にゴキブリやシバンムシなどの拡大模型を配置した展示コーナーを作り,強いインパクトで好評を得た.といっても,最も努力したのは実際にこの初宿邸を施工した,通称T工務店(T氏はこの類の施工が得意な古生物屋の学芸員)であるが・・・・.
今回の特別展でも1998年の時の初宿邸と同様,身の周りにあるレッドデータ関連製品を家の造作の中に並べようということに,会議の場で決まってしまった.とりあえず引き受けたのであるが,前回とは違い,小さな品物などを並べたところで,うまく見せる方法など,どうも展示としてのイメージが沸きにくい.
そこで,造作を家ではなく,何かの店にしてみようと考えた.まず,思いついたのはコンビニエンスストアである.これなら商品として何を置いても違和感ない.しかし,コンビニ独特の棚や大きな冷蔵庫など,大道具をそろえるのが大変難しそうであった.
次に考えたのが居酒屋であるが,レッドデータの生物とどう絡めるのかが難しかった.
やがて,マグロなどの問題から寿司屋にしてみてはどうだろうかと思い,さらには「回転ずし」というダイナミックな展示で目を引こうと考えたのであるが,T工務店と相談しても,どうも予算と準備時間が足りないようで,泣く泣くカウンター式の寿司屋になってしまった.せめて店長のマネキン(名前は登呂光:とろぴかる)ぐらいはグルグル回したかったが,結局それもかなわなかった.
このような経過に立脚して,テーマを熱帯林破壊にしぼり,寿司ネタの「トロ」と「トロ」ピカル(熱帯)をひっかけた寒いネーミングが,今回の初宿亭のなれの果てである.
店の名前は「地球にあやしい 回らない寿司屋 トロぴかる」としたのであるが,あるオヤジ学芸員は「「あやしい」の「やし」の部分を「ヤシ(椰子)」にしたら,もっといいよね」などと言っていた.
夏の盛りに,寒さ倍増だ.
博物館友の会の昆虫合宿が6月9〜10日に開かれた.理科離れ・自然離れが叫ばれる中,昆虫の標本の作り方を,合宿形式で懇切丁寧に教えようというものである.もう,かれこれ13年目になるようだ.かく言う私も博物館に勤めはじめて9年目になるようで,この合宿に長くつきあってきたものだと思う.今年は親子連れなど37名の参加者とともに,兵庫県波賀町で行われた.
赤西(あかさい)渓谷は昆虫採集の有名なところらしく,下見・本番ともに,私たち以外に昆虫ネットをもった人がずいぶん多かった.赤西川の潤いもあって,虫の数は多く,たしかにいいところだ.ミヤマカラスアゲハ,カラスアゲハ,ウスバシロチョウのほか,ムカシトンボが飛び交う姿もみられ,また5月下旬の下見の時にはエゾナガヒゲカミキリという珍しい種類も見つかった(小生が採集).夜には宿舎のまわりで,ブラックライトを灯した白幕に,ミヤマクワガタやコクワガタ,またオオミズアオなどの大型の昆虫もたくさんやってきた.
参加した感想を5・7・5の俳句にまとめましょう,ということになった.友の会のM評議員が昨年,友の会合宿「大江山」で提案したことが始まりであるが,これからも合宿の恒例になりそうな感じだ.私も下手ながら,詠んでみたい.
●赤西の白のハコベの四ツ黄星
4月に下見をしたとき,赤西渓谷の入口の荒れ地に,ヨツキボシハムシという日本固有の珍しいハムシがいました.行事の時にはウシハコベの葉を食べる幼虫がついていました.
●茜さすムラサキトビケラ灯火に来
ヤマセミの飛び交う千丈川に向けてライトトラップ.大型の水生昆虫,ムラサキトビケラが来た.地味なトビケラにあって,蝶や蛾にも負けないぐらいの派手なもようがある.他にもコクワガタやミヤマクワガタ,クロシデムシなども飛来.
●トラップを見に行く声や薄明かり
友の会合宿はいつも,前の晩に仕掛けたトラップを回収に行く子供たちの声で目が覚める.でも世話役はみんな夢の中.トラップにかかった虫を見せに,世話役室に持ってくるけど,もうちょっと寝させてくれ!
●ビール飲む?サッカー見たいし早よ帰ろ
世話役の反省会は,今回はなし.コンフェデ杯決勝(フランス戦)を見たいしね.負けちゃったけど.
花と緑と自然の情報センターが無事に開館した.4月27日の記念式典には大阪市長をはじめ,たくさんの方が出席されていた.僕も珍しくスーツ姿で,展示室の案内係を務めた.
5日(土祝)には情報センターの窓口当番だったが,無料ということもあって,実にたくさんの方が来館されていた.博物館では「滅多に見られない珍しいもの」「目をひくもの・話題性のあるもの」を展示してお客さんを呼ぶというのが普通と考えられ勝ちだが,この展示室は地元の大阪の自然を,肩肘張らずに自然体で展示するというコンセプトのもとに作ったものである.評判としてはたいへん好評のようで,来館者の「去年このスズメバチが家に巣ぅを作って困ったねん」とか「さっきおった蝶々はこれやで,アオスジアゲハや」とかいう声を聞いていると,学芸員みんなで力を合わせて作り上げた甲斐があったと感じている.
さらには,学習コーナーの図書やコンピュータ端末には,つねに人がたくさん集まっていて,こちらも大成功といえるだろう.「無料開放はもったいない」という声もあるようだが,ちょうど図書館で調べものをするように気軽に来てもらうことが普及教育の第一歩であるので,こちらもこれでよかったのではないだろうか.
個人的に「売り」にしているのは,引き出しから自由に「手でとれる昆虫標本」である.体長が5ミリ以下の昆虫は,家の中や庭先の害虫など身近にもたくさんいるが,ガラスケースなどで展示したところで,誰も見てくれるはずがなく,展示する効果がないというものだ.より身近に接してもらうために,小さな樹脂ケースに入った標本を手にとって見ることができ,また必要に応じて,相談コーナーのカウンターにある実体顕微鏡を借りて観察することができる形を敢えてとった.紛失の危険性はあるが,もし無くなっても身近にたくさんいるものばかりで,貴重なものは出さないということにしているので,ダメージは小さいと思っている.まだ種数・標本点数とも少ないが,大阪府内にふつうに見られるものだけでも,種類を取りそろえていこうと考えている.
情報センターの個人的な「売り」 =手にとれる大阪の昆虫標本. 裏側からも観察できるように,透明のシートに貼り付けてある. |
いよいよ切羽つまってきた.準備ができるのは,もう明日しかない.展示ケースを埋めて,とりあえず格好をつけるのが精一杯だ.その展示ケースも,思っていたよりずっと大きなものがあって,埋めるのがたいへんだ.はく製や化石などの大きな標本とは違って,昆虫の場合は小さなものが多く,たくさん刺していっても,なかなか展示ケースが埋まらないのだ.でも何とかオープンまでには出来る見込みはつけた.
早めにマスコミ向けのプレビューがあったこともあって,他の分野でも何とか見込みがついてきたようだ.いくつか,ケースなどがまだ届いていなかったりしているようだが・・・・・.
今日は準備が終わらなかったが,明日がある.「あし〜た〜がある〜さ,あすがある」を鼻歌で歌っている人が多かったことが印象的な,オープン2日前であった.
情報センター(新館)の開館準備は,思っていたとおりのキツイ作業である.常設展準備(これは初めての経験:コンピュータ検索のコンテンツづくりなども含む)と並行して,オープン記念の特別展の準備もせねばならないからである.
特別展は,題して「50周年だヨ!標本集合!!」.自然史博物館が天王寺美術館の間借りで展示を開始して50周年を記念し,これまで収集してきた標本のエッセンスを展示しようというものである.このくだけたタイトルは,小生が会議中で出した発言から由来している(小学生のころに熱中したテレビのバラエティ番組のタイトルと関連)のであるが,タイトルとは不相応(?)な,非常に格調高い展示会になりそうだ.もともとのコンセプトは「常設展準備で忙しいから,すでにある標本を並べるだけにして省力化しよう」というニュアンスに近かったのであるが,特に1990年に大阪湾に流れ着いたナガスクジラの骨格標本などは,十分な見応えである.折しも同時期に市内にオープンした某テーマパークにも負けないぐらい(?)のド迫力だ(と思う.まだ行ってないから知らん).
私自身の担当部分はというと,1996年の「昆虫化石」展と1998年の「都市の自然」展に関連したものがメインとなった.標本や写真パネル,レプリカなどを引っぱり出しているうちに,それらの準備当時のことが,ほろ苦く沸き上がってきた.どちらの特別展も,そのころ持っていたエネルギーを,能力以上に費やして乗り切った展示会だったからである.あの頃は本当にしんどくて,いったい何のため,誰のためにやっているのかわからなく思ったときもあった.しかし,今になってみると,その苦労が少しは身についていると感じられるようになっているから,やっぱり経験してよかったと言えるのだろう.
桜が咲いてしまった.
一年ほど前には,桜が咲く頃には目鼻がついているか,と思っていた情報センター(新館)の準備は,まだまだである.というか,ぜんぜん,というか,・・・・・・・ほんと冗談ではない,といった感じになっている.
まず,開館と同時に販売開始予定の「新版・自然観察地図」.小生が編集・制作担当にあたっているのであるが,なかなか原稿の出さない人がいて,本当に困った.もうリミットを過ぎている.選抜高校野球が準決勝を迎えた今日,未提出者がようやくあと2人になった.常総学院か仙台育英か,○○さんか×××さんか,どっちでもエエから,はよ決着つけてくれ.
かく言う私も,担当部分の展示準備がどれほどできているか.標本などを並べたりという作業は,実際これからが勝負というのが本当のところである.すべき仕事が山,という状態を超越している.
花より準備.今はとにかく,それしかない.
情報センターのコンテンツの制作をひきつづき行っている.来年度から植物園案内(動物・昆虫編)も始まるので,長居公園内の甲虫の記録をリストアップしてみることにした.作業中に動物研究室のW学芸員がのぞきに現れた(W学芸員のページ参照)時点では142種だったが,その後,長居公園の甲虫は157種になった.長居公園で記録のある鳥の種類と甲虫の種類があまり変わらないというのは,けっこうショックだった.でも,靱公園(大阪市西区)のリストよりは多いので,とりあえずはひと安心.
面白いか当然かは判らないが,長居公園にいる甲虫は普通種ばっかりである.また,分布が広いものが多い.中国,朝鮮半島,北海道との関連を調べてみても,半数以上が共通に分布している種類である.
長居には正確な記録はないものの,大阪市内には合わせて300種ぐらいの甲虫の記録があるようだ.きちんと調べてみれば,まだまだ増えるに違いない.(「鳥vs.甲虫」(その1)はこちら.)
4月開館予定の「情報センター」では,「大阪府の自然のことが何でもわかる」とを謳っている.しかし,まだ調べられていないことはわからないので,どうぞ悪しからず.
大阪府に甲虫(鞘翅目昆虫)はいったい何種類いるのか,それもまだきちんとは調べられていない.大阪府が1999年に調べたリストでは1,928種であった.他県では3,000種を超えているところもあるというが,大阪は人口が多く,高度に都市化が進んでいる上,1,000mを超える山が金剛山しかないという不利な条件もあるだろう.でも,まだまだ増えるにちがいない.とりあえず,2,000種を目指そう.
ちなみに,科別のトップ20は以下であった.
小生が専門で扱っているハナノミ科は圏外であった.わずか12種しか記録されていない.もっと真面目に調べねば,と思った次第である.
「学芸員告白コーナー」(010201)[omnh 006291] より.
博物館で開いているメーリングリスト[omnh]で,学芸員になりたい方から,学芸員になったきっかけなどについての問いかけがあったので,小生も曲がりなりに応答した.何らかの参考になるかもしれないので,その内容について,本HPで紹介する.
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僕も「告白コーナー」に投稿します.小生,1993年4月に大阪市立自然史博物館に学芸員補として赴任して,現在に至ります.
> 1. 元々学芸員になろうと思っていましたか?
研究の仕事はしたいと思っていましたが,特に学芸員になりたいとは思っていませんでした.大阪の博物館の学芸員募集を受けてみようと思ったのは,昆虫の研究が続けられると思ったのと,できれば関西に帰りたいと思っていたからです.
> 2. どのように学芸員の募集について知りましたか? もしくは、学芸員になったきっかけは?
大学の研究室に公募が来たからです.私の場合は現在勤めている大阪の博物館から,2度にわたって来ました.
1回目は修士1年の時(1991年)でした.当時は北海道大学に通っていたのですが,滋賀県出身で,いずれはできれば関西に帰りたいと思っていたので,よっぽど応募しようかと思いましたが,修論研究の途中だったのと,研究業績も何もなく,通るはずもないと思って受験はしませんでした.
翌年の5月に滋賀へ帰省し,その折りに大阪へ行く機会があったので,博物館に立ち寄ることにしました.当時はまだ誰も知り合いがいなかったので,もちろん表から入館料を払って入りました.ポーチで撮った記念写真が今も残っています(若い!).学芸員から話をうかがうことはしませんでしたが,その以前から生物地理を扱った日浦勇さんの本なんかも読んでいたので,こんな博物館に勤められたらいいなぁ.やっぱり去年,受けたらよかったかな,と思ってました.
ところが,その年の秋に再び,大阪の博物館から公募が来ました.前年は募集がいくつかの分野にまたがっていた(そのうちのひとつが甲虫だったが,結局,魚の波戸岡さんと植物化石の塚腰さんが入られた)のですが,その年は甲虫だけの募集でした.修士修了見込の身分だったので,受験しようと思いました.
しかし,教授が「推薦状を書かない」と言い出しました.理由は簡単.公表された研究業績がほとんどないからです.たしかに教授に推薦状を書いてもらえるほどのことはしておらず,何も言えないまま引き下がることにしました.その夜は飲みに行って,だいぶ荒れてました.
そんな姿を見てか知らずか,助手の教官らが教授を説得してくれて,とりあえずは形だけでも推薦状を書いてくれることになりました.教授はまっすぐな性格の人物だったので,心にも思っていない内容の推薦状を書くのは嫌だっただろうと思います.修士論文のための研究の傍ら,一般教養の公務員試験の勉強や博物館学の教科書も開いたりしましたが,教室の先輩や後輩らからは「無駄な努力だ」などと,ずいぶんからかわれました.
内定の通知をもらったときは,信じられませんでした.どういうつもりで僕を採用したのか,今でも聞きたいぐらいです.
> 3. 学芸員の仕事の良い点・悪い点
悪い点から述べますと,研究職としての研究条件は最低ランクでしょうね.雑用があまりにも多く,時間的な制約はかなり大きいと思います.この中で高い研究レベルを維持するのは誠に困難です.とりわけ,僕は博士課程に行かなかったので,日々雑用ばかりこなしていて,他方で同世代や後輩らが博士課程でバリバリ研究の仕事をしていて,差はどんどん広がるばかり.学会に参加するたびにそれが明白になるので,最近はあまり学会に行きたくないのが本音です.博物館に勤めはじめた時に,博士の学位をとるための「5カ年計画」を立てたのですが,8年たった今では「13カ年計画」に後退しています(つまり,進んでいないということ).
良い点は毎日がクリエイティブである点.仕事で個性としての「初宿」色を出すことが出来,それが博物館の色の一部になるというのは大きな喜びのひとつです.そういうこともあって,博物館に勤めて8年弱ですが,「暇」と思ったことが一度もないです.これはすなわち,単に処理能力以上の仕事がどんどんやって来て,常にすべき仕事がたまっているということですが,いわゆる雑用の類の中にもやりがいのある仕事もあり,いくつかは○か×の答えだけが用意されているわけではない自然を相手にしているので,それを成し遂げたときの充実感は,次の仕事の励みになっていると思います.
あと,私自身は昆虫分類学をやっていますが,博物館は標本と文献がたくさんあることが大きな魅力で,研究に直接結びつく環境のベースはあると思っています.といっても,質量ともにまだまだ不十分で,今後とも充実させなければならないのと,上述のように,研究のための時間は別としてですが.
> 4. 学芸員を目指している人に対してコメント
上で述べたように,研究業績がほとんどないのに,学芸員になれた私は幸運中の幸運ですが,やはり業績を持っておくことが学芸員に限らず,研究の仕事につく一番の近道ではないでしょうか.「いい」論文を「書く」のが一番いいに決まってますが,次に来るのは「いい論文ではない」が「書く」ことだと思います.「いい」論文だが「書かない」よりはマシということです.私も過去に書いたものを恥ずかしく思うこともしばしばありますが,その時にはそう思って書いたので,それは仕方がないと思っています.
特に分類学をやっていると,シノニム(=同物異名:すでに記載されているものに対し,新種として名前をつけてしまうこと)なんかをやってしまうと,誠にがっかりしてしまいます.最近,海外の同業者から指摘されて,がっかり来ているところですが,まぁ,それも歴史の1ページですね.
W学芸員(鳥),S学芸員(キノコ),N学芸員(地質)ら,筆者と同世代の同僚たちは,やたらとランキングをつけたがるようだ.かく言う私も,ハナノミランキング,ハムシランキングなど,当HP内の他のページをご覧になれば「あんたもや!」と言われそうであるが.
ところで最近,氏らから発表されたランキングにおける筆者のランクついて,紹介しておこう.
毎年開いている友の会の昆虫採集合宿でも,「エエ虫を採った人のランキング」などを行っているし,また,靱のセミのぬけがらしらべでも「今年のぬけがら数予想コンテスト」をしている.それで順位をつけることの是非については,いつも世話役間で話題にはなるが,参加する者にとって励みになるのは間違いないだろう.
先日,高知へ行く機会があったので,少し足をのばして四万十川へ行くことにした.
最後の清流と呼ばれるこの川は,博物館友の会の合宿候補地として毎年のようにあがるものの,適当な宿舎が見つからなかったり,地理的に遠いこともあって,なかなか計画がすすまない.
出発前にインターネットなどで情報を集め,現地へ乗り込んだ.高知市から列車で中村市へ向かい,まず河口へ行ってみた.河口の西側には照葉樹の茂る小高い丘があり,四万十が太平洋に注ぐ雄大な景観を見渡すことができる.少し南の足摺岬付近にはツバキで集団越冬するオオキンカメムシや,夏にはミナミヤンマの姿も見られるというが,今回は時間がないので立ち寄るのはあきらめた.
虫屋にとって,中村といえば「トンボ王国」だ.多種多様のトンボが生息しているといい,中にはベッコウトンボのように全国的に非常に少なくなった種類も見られるという.寒い季節のど真ん中で,トンボの姿を観察するというわけにもいかなかったが,トンボ自然館には実にたくさんのトンボの標本が展示してあり,見応えは十分だった.
四万十川中流や上流にある宿舎を下見した.いずれも四万十川の流れのすぐそばにあり,廃校の小学校を改築したものや村立の公共施設で,50〜100人が泊まることができる.高知県の山地はスギやヒノキの植林が非常に多いが,やはり雑木林もところどころにあるようで,宿舎のまわりでも毎晩,灯りにカブトムシがたくさん飛んで来るという.ただ,蛇行をくりかえす四万十川は地図で見るよりもずいぶん長い川で,道の狭いところがところどころにあったり,そもそもの地理的位置が大阪からはかなり遠いので,合宿が実現できるかどうかは,やはり未知数である.
ついに21世紀がやってきた.今年も琵琶湖に上がった花火を見ながら新年をむかえた.
今年の干支は「巳」(み=ヘビ)であるが,私の初夢は何と「ヘビ」であった.
昨年は春から秋まで,新館の新展示作成のために大阪府下をいろいろ歩いたが,虫の調査の傍らで両生・は虫類も探すようになってしまった.いつも同行したW学芸員(動物研究室)が大阪府下の分布調査とレプリカ作成のため,いつもヘビやカエルを追いかけていたからである.(生態情報・分布図などはW学芸員のHPを参照してください)
夢は以下のようなストーリーであった.学芸員数人で民家のわきの細い道を歩いていると,前方に白っぽいヘビが横たわっていた.誰かが「あっ,ヘビや〜,たぶんシロマダラやで〜」と声を上げた.シロマダラは珍しいヘビの類に入るようなので,興奮して近寄っていった.ところが,そのヘビは急に膨れだして体長が短くなり,飛ぶように逃げて民家の縁の下に隠れてしまったのである.見つけたヘビは,どうやら「ツチノコ」だったようなのだ.
「これをつかまえたら,大阪府初記録どころじゃないぜ」などと,興奮気味に棒切れで縁の下をみんなでつついたのだが,残念ながら捕まえる場面までは続かなかった.
夢でも幻に終わったようである.
●ソウルフル・ソウル soulful Seoul(001031)
「しやけの中華街」(ぜんぜん更新してない)を見るまでもなく,日本は歴史上,近隣の諸外国,特に中国など大陸からの強い影響を受けてきたが,本当の意味でもっとも近い外国は,間違いなく韓国であろう.
先だって,その韓国に行く機会があった.飛行機でわずか1時間強,飛行機運賃も北海道や沖縄に行くよりもずっと安い.このことは地図でみれば明白であるが,行ってみないとなかなか実感できないものである.
ソウル金浦空港に降り立ち,市内へ向かう地下鉄は,広告がハングルであることを除けば,人々の顔立ち,服装,雰囲気まで,日本とまったく同じであると言ってよいぐらいだ.気候は日本(関西)あたりよりは1カ月ほど早いようで,市街地南にある南山(モンゴリナラ,ケヤキ,イロハモミジなどの雑木林がある)や北郊の研究施設の演習林は,今や紅葉の真っ盛りである.ぽかぽかと暖かい日だったので,研究施設のまわりでは,越冬場所を探すナミテントウやカメノコテントウが無数に飛来していた.
これまで欧州やアメリカも含め,大都市と呼ばれる街にいくつか行ったことがあるが,街の雰囲気や人々に活気があるのは,上海,北京,台北,ソウル,そして大阪や東京のような東アジアの街であるように感じる.21世紀には東アジアの国々がいろいろな意味で,今以上に世界の表舞台に出るようになるという予感がしている.しかし,そのためには東アジアの各国同士の相互理解がもっとすすまなければならないだろう.
ソウルの繁華街には,正式に解禁になった日本の歌も流れ,地下街には日本映画のポスターも貼られている.当初は複雑な対日感情というものも覚悟したが,明らかに日本人の顔(=ヒゲ面)の私に対してフレンドリーに日本語で話しかける人も多く,そのような不安は吹き飛んでしまった.
果たして,日本に住む私たちが外国からのお客さんに対し,同じように対応できるであろうか.
この10日間ほどはとても忙しかった.松江へ行ったり,名古屋(昆虫学会:講演2つ!)へ行ったりしたあと,大阪へ戻ってからはロシア科学アカデミー(ウラジオストック)で甲虫(特にテントウムシ類)の分類を研究している客人があって,お世話をすることになった.つくばの研究機関の招聘による1カ月の日本滞在であるが,つくば以外の日本での滞在地として,自ら「大阪へ行きたい」との希望を出されたという.北京にいる友人のところにある小冊子「大阪のテントウムシ」を見て,小生をテントウムシの専門家だと思ったらしい.
ロシア人と聞いて,東西冷戦のころの冷たい(?)イメージが先に立ったが,お会いしてみるとたいへんフレンドリーな方で安心した.一緒にフィールドに行ったり,標本をみながら議論したりして,受け入れたこちら側にもなかなか有意義な1週間だった.また,昨日の甲虫学会の席では,わざわざこの日のためにスライドを準備され,極東ロシアの自然を紹介してくださった.
近いうちに,きっと沿海州へ行くぞ!と心に決めた次第である.
北海道での最終日,その大雪山に登った.3才の娘といっしょなので,登山ではなくロープウェーで上った.
旭岳温泉(勇駒別:イコマンベツと読む)のロープウェー駅は今年改修されたばかりだそうで,ずいぶんきれいな建物だ.前に来たときは木造の駅だったように思う.ロープウェーが昇るにしたがって,樹種はアカエゾマツ,ダケカンバとなり,やがてハイマツの生える高山植生となる.標高1600mの姿見の池駅のまわりには,チングルマ,エゾノツガザクラ,エゾコザクラなどの高山植物がたくさん咲いており,ハナアブがたくさん訪花している.目前には旭岳の地獄谷が白い煙をあげているが,旭岳のピークは,残念ながらガスがかかって見えない.
目に見えるものの大部分が大自然.人工のものはほとんどない.大空と大地があるだけだ.北海道へ来る前には,いろいろなことに煩わされていたが,このような大きな自然の中に身をおくと,そんな自分も含め,人間の存在がとても小さく感じる.ここへきて本当によかった.煩いを洗い流し,心身をリセットして,関西へ帰ることができそうだ.
生きるのが つらいとか 苦しいだとか いう前に
野に育つ 花ならば 力の限り 生きてやれ
(松山千春「大空と大地の中で」より)
(北海道旅行記:おわり)
札幌で家族が合流し,少し札幌をまわったあとは旭川・富良野方面へ移動した.特急ライラックで1時間半で旭川へ着く.教室の先輩(今は旭川の大学に勤めておられる)と駅で待ち合わせした.予め富良野のよい宿を紹介してもらっていたので,そのついでにお忙しい中,お会いさせてもらうことにしたのだ.
この先輩との最大の想い出は,1989年夏に大雪山を縦走したことだろう.美瑛町白金温泉から,美瑛岳,美瑛富士,オプタテシケ,トムラウシの頂点を制覇し,天人峡温泉へ下った.重い荷物を背負って,いったい何日かけて歩いたことだったろうか.道に迷いそうになったこと,雪渓を器に盛って缶詰のアズキをかけてカキ氷にして食べたこと,米の袋をソリにして登山道にかかる雪渓を滑り降りたこと,岩陰から現れたナキウサギの可憐な姿,などなど,今では本当になつかしい思い出だ.
翌日の昼間には,美瑛の丘から,美しいジャガイモ(緑)や麦(褐色)のパッチワークの畑が広がり,その向こうに大雪山連峰が見えてきた.谷筋には雪渓が縦に残っており,十勝岳の西側斜面からは白い噴煙も上がっている.ひときわ高くなった頂上の名前が地図なしに言えてしまうのは,やはりこの山への深い思い入れがあるからなのだろう.(その4)
大学時代の友人たち(同級生,先輩,後輩)に久しぶりに会えたことが,今回の旅行で本当によかったと思えたことであった.昔ばなしに花を咲かせた.彼らは僕のいろんな失敗話などを次々に口にし,腹がよじれるほど笑った.自分が昔からバカだったことを再度,思い知らされた次第であった.
学生街の小さな飲み屋(ママさんが「めんこい」)に教室の後輩たちと行くことにした.ここは昔,研究のこと,日常のこと,将来のこと,いろんなことを朝まで,飲みながら語り合い,議論したところであった.教室の延長上にあった飲み屋といってもよい.
店の造りはまったく変わらず,店内のメニューの貼り紙は7年前からそのままじゃないかと思うぐらいに汚い.そして,めんこいママさんもほとんど昔のまま変わってない.カウンターに腰をかけて,おそるおそる自分のことを尋ねてみたところ,僕のことをよく覚えていてくださったようで,誠にうれしく思った(難しい漢字まであっさり当ててしまった).
「焼酎(甲類)の番茶割り」という北海道流の飲み方で,学生時代に戻ったかのように,明け方近くまで飲んでしまった.(その3)
北大農学部で開かれた日本鞘翅学会(7月22〜23日)参加と,個人的ながら旅行のため,北海道を訪れている.
札幌に来るのは北大を卒業してから2回目で,実に6年ぶりである.酷暑の関西空港を脱して,日没後に降り立った新千歳空港に吹く風は実に心地よい.エアポートシャトルに乗って,豊平川の鉄橋を渡り,前方からテレビ塔や街灯りが見えてくると,すっかり北海道人に戻ってきたようだ.札幌駅のようす,食べ物や飲み物,人々のしゃべり方,すべてがなつかしい.
昔にすんでいたボロ(大家さんには失礼)アパートはもうなくなっているのではないかと思っていた.しかし,東隣の予備校生の学生寮,西隣のボロ(失礼)居酒屋,向かいのボロ(失礼)ビジネスホテルはなくなっているのに,そのボロ(失礼)アパートだけはまだ残っていて,私の住んでいた部屋にも誰かが住んでいるようである.周囲は更地になっているにも関わらずである.大家さんガンバレ!昔,家賃を滞納してゴメンね(長くて半年以上は溜めたなぁ!)
北大のキャンパスも,いくつか新しい建物ができていたり,所属していた教室も机の配置などが多少は変わっていたりしたが,まったくなつかしい,なつかしい.その一言である.(その2)
野尻湖の発掘は3年に1度,長野県上水内郡信濃町の野尻湖畔で開かれる.この発掘に参加した.
最初の2日間は大雪が降って寒かった.
それからは,いろいろおじさんがギャグをとばして,寒かった.
その後は,みんなが帰って寒かった.
でも,昆虫がたくさん見つかってよかった.詳細な研究ののち,別途報告することにしています.
三寒四温で,暖かい日はまさしく春のようになってきた.梅の花もほころび,木々の芽も少しずつふくらんできたようだ.
春になるのをワクワクして待ちわびるのがふつうであるが,私はあまり春が好きでない.暖かくなると忙しさが増すからである.特に今年は2001年春に「(仮称)花と緑と自然の情報センター」のオープンを控えており,展示のためのデータとりや展示品製作,そのほか何やらカンやらで超多忙であるのが目に見えている.ちょっと憂鬱になってしまうのである.「春よ,来い」ならぬ「春よ,来んな」と歌いたい.
この冬を振り返ってみた.去年の今頃はドイツのドレスデンで毎日,標本と戦っていた.あこがれのタイプ標本と面会できたのであるが,検鏡というルーチンワークの5週間もつらいものがあった.一昨年の今頃は普及担当真っ直中で,実にさまざまな雑務に追われていた.それらに比べると,この冬も多忙ではあったものの,いくつかの意味で「建設的」に過ごせたかもしれない.
そう言える最大の理由のひとつは,Insecta Miyatakeanaの編集作業であった.200ページを超える冊子の編集はただごとではなかった.日常業務をしながらの作業となったのだが,それでは追いつかず,早朝や深夜,行き帰りの通勤電車の中,会議中にまでキーボードを叩いて作業していた.スキーに行ったときでさえも,早朝に起きて作業をした.「寸暇を惜しんで」とはこのことであった.これらの成果もまもなく発刊される.大いなる達成感を抱いている.
もうひとつは,研究業績の数が今年は昨年よりもずいぶん増えていることである.投稿中のものや細かいものまでを含めて,年間20編を超えたのは初めてのことであろう.ただし,このうち,本当に自分の研究としてやった仕事はいくつあるだろうか? やむを得ず引き受けたものも多いように思う.また,頼まれても「出来ない」と断ったり,いったん引き受けながらも出来なかったり,先延ばしにしたままのものが,実際にし終えた仕事の同じ数ぐらいあるのが実状となっている.
雑務をこなすばかりでなく,研究者としてやる創造的な仕事に充実感を持てるようにしたいものだ.
●Insecta Miyatakeana−宮武頼夫さん退職記念論文集(000223)
宮武頼夫さん(大阪市立自然史博物館の前館長)が退職されてから3年,実際に博物館から離れられてから2年近くが経過している.退職を記念した論文集を作ろうという話が以前から昆虫研究室まわりから出ていたのであるが,なかなか予定の原稿が集まらず,これまでずっと先延ばしになってきた.
いつまでも延ばしておくわけにはいかないと,ついにこの3月で発行に踏み切ることになった.小生も編集に関わりながら進めている.タイトルは北大昆虫学教室が出している昆虫学雑誌Insecta Matsumuranaにならって,Insecta Miyatakeanaとしている.内容は,氏の業績目録や記載昆虫リストなどのほか,アマチュア研究家を中心とした18人が記事を寄せている.その内容は大阪府や近畿地方の昆虫類のリストや概説などが中心となっており,一部には絵解き検索や豊富な標本写真も掲載したものもある.分野も直翅類,シリアゲムシ,カメムシ,同翅類,蛾,双翅類,ハチ,甲虫など,各分野にわたっており,各地の昆虫相を調査する上では,重要な文献になるだろうと思われる.分量も都合200ページ程度になる見込みである.
【追記】購入方法はHP上で紹介中です.こちら.
運動神経のにぶい筆者は,基本的にはスポーツは嫌いである.だが,以前に北海道に住んでいたこともあって,スキーだけは自らすすんでする数少ないスポーツである.
札幌あたりには郊外にナイター設備のあるスキー場がいくつかあって,大学の授業が終わったあとにスキーに出かけるということもできた.そのため,そのころは年間10回程度はスキーに出かけられたのであるが,近畿の中部にすむ現在では,職場の人たちとスケジュールをあわせて,年に1度行く機会をつくるのがやっとである.昨年は結局,そのスケジュールもとれず,今回が2年ぶりのものとなった.
行き先は兵庫県北部だったので,日本海の海の幸も美味であった.来年もいけるようにしたい.
西暦2000年になった.その瞬間はわがマンション(6F)から琵琶湖に上がった花火を見た.そのまま街の灯りが消えるのではないかと思ったが,何もなかったようで,とりあえず一安心である.
最近,もっとも力を入れている仕事はハナノミの研究である.小生の研究のメインテーマであるから,聞けば誰もが当然と思われるかもしれないが,博物館に赴任してからのこの6年間はそうではなかったのである.恥ずかしい限りであるが,かつて養った分類・同定する目を復活させるのに,ずいぶん時間がかかってしまった.「リハビリ」はすこぶる順調で,今では近畿地方に産するハナノミはほとんど一目で同定できるようになっている.
この成果の一部は近々,活字の形で紹介したいと思っている(具体的な紹介は後日おこないます).