作詞のまとめページ

●作曲リリース済

カメムシ音頭


●作曲作業中

なってもた

Ro-Byo-Shi(老病死)

偽善者

輝く地球の命

人間の愚


●作曲未着手

<あ>
明けない夜は無い
幼い子供たちに
思いやり助け合い
俺の背中

<か>
勝手にしてやる
亀の甲より年の劫
期待に応えられなかった
季節と命の喜びを

心だけはピカピカ

<さ>
幸せはどこにある?
自分の道
十虫十色
縄文人
成功体験

<た>
太陽がのぼったら

<な>
流れる時の中で
なるようにしかならない
人間なんて不平等

<は>
日陰の花
プレイヤーの詩

<ま>
まずは自分が笑おう
真夜中のLAMENTATION

<や>
やりたいことをやれ
ゆっくりでいい
夢の中で飛びまわる

<ら>

<わ>
若者たち 今むかし
若者に告ぐ

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自己受容法=「恥ずかしい」からの脱却

 プライドとコンプレックス(劣等感)は表裏一体のものであると聞いて、一瞬よくわからなかったが、いろんな人を観察してみて、確かにいわゆるプライドの高い人の根底には、同程度のコンプレックスの存在が見えてきた。それでは幸せといえない。逆にどちらも少ない人は、自分なりの持ち合わせのスペックでもって人生を歩み、たいへん幸せな心が得られている。

 これはそれらの人の能力や成績とは無関係で、心の中だけの問題である。能力が上なら幸せというわけではない。知り合いの先生ですごい研究の成果を出しているのに、コンプレックスの塊のような方がいる(なので相当プライドも高く威張り散らしている)。

 とはいえ、特にプライドの高い人にとって、自分のダメな部分に目を背けず、直視して受け入れることは難しい。私自身、まったく脱却できていない人間だ。

 自分なりにその方法を思案したが、それはすなわち「恥ずかしい」の感情を捨てることなのかなと思っている。他人に見せたい理想の自分と、実際そうじゃない自分とのギャップに「恥ずかしい」の感情が生じる。 それはすなわちコンプレックスである。私自身、過去のうまくいかなかった事を思い出し、「恥ずかしい」「消し去りたい」という気持ちになることがしばしばある。その気持ちを解消するため、優越感を見せつける言動が多くなったりする。

 だが実は他人は本人が思うよりもっと「コイツはそんなもんだ」と、現実の自分の程度を既に知っているような気がしている。また他人から私への関心は、私が思っているよりかなり低い。

 なので、その人の消し去りたいコンプレックスを「恥ずかしい」と思っているのは、ほとんど本人だけであって、他人にはかなりどうでもいい話なのである。

 こう考えれば、「自分なんてそんなもんだ」と受け入れることができる(のかな?)。

 さらに人の目を気にしない自己肯定感が得られれば、おそらくより幸せな心で日々の生活が送れる(のかな?)

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ホリエモン氏はフジテレビ社長にはならないほうがいいと思う

 フジテレビが大騒ぎになっている。かつて買収しようとしたホリエモンこと堀江貴文氏を新社長にと推す声がある。

 物事にはタイミングというものがある。私も「これが20年前に出来る環境があったら、あれこれ違ったのに」と思うことがある。もちろん逆に幸運のタイミングに恵まれたと思うのもある。

 ホリエモン氏があのころ社長になってたら、いろんなことが(当時の)若い発想で変えることができたかもしれないと思う。でも、仮に買収の横やりをすべて排除して成功していたとしても、たぶん新しい社風にはなってなかったとも思う。おそらく既得権益にまみれた社内での大抵抗に遭い、何らかの形でいずれ、改革は潰されていただろう。だから今回、もし社長になったとしても、ほぼ同じことだろうと思う。

 既得権益にしがみつく姿勢は保守的と見られやすいが、リベラル・改革側と呼ばれる労働組合は既得権益の塊だ。労働者の最低限の生活の保障を求めるのは当然としても、無いものねだり(やって獲得できた者が勝ち)が目に余ると感じたころがある。

 要するに、日本社会のほとんどが既得権益で構成されているのである。このような社会構造が、若い人たちにとっての「タイミング」(上述)を減らしているように思う。だから日本の将来は暗いのだ。

 ホリエモン氏は現在のように、社会に向かって真っすぐ意見を発信する立場のほうが、楽しく人生を過ごせるのじゃないかなと思う。

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心だけはピカピカ

僕はもう55のオッサンで
顔のしわも増えたけど
心だけはピカピカやぞと
君らには言える

自分を信じて新しいことにトライしてる
他人と比べるのはやめた
人の眼を気にしなくなった
自分だけの定規でこの世を計ってる

人として生まれたんやから
自由に生きたらいい
自分のエエとこアカンとこ
そのうち自分で気づくから

でも他人には迷惑かけたらアカン
人をわざとつまずかせて
自分の順位を上げたらアカン
負けて気づくほうが多かったりするんやで

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パワハラの被害経験

 兵庫県知事のパワハラ疑惑の件、特に興味があるわけでもないのだが、SNSで「人前での叱責はパワハラに相当する」というのを見聞きして、ひとつ私自身の被害経験を思い出した。

 大阪市立自然史博物館の学芸員としての勤務時代、友の会会員さんらとダンスを踊って、それをYoutubeにアップするというアイディアが若手から出され、私はカチンコとメガホンもって座っているだけの無口な(?)監督役をなぜか演じることになった。

 高いところから撮影をする必要があって、高所作業用のリフトを使うことになった。しかし忘れ物があった何かで、その場所から離れてしまった。

 K(2024年現在館長←当時課長)による館内一斉放送による呼び出しがあって、みなさんの前でリフトの鍵が刺さったままであることを叱責された。

 友の会会員の子供が触ったりするかもしれないので、それは確かに危なかった。しかし本当にもし会員さんの安全を心配するなら、Kがまず最初にすべきことは、刺さっている鍵をリフトから抜くことである。

 この人物の行動の目的が何であったかは。火を見るより明らかだ。

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市民「マラソン」イベントへの嫌悪感

先だって訪れたところで、市民マラソン大会に出くわした。3時間ほどでもランナーが途切れないぐらいだったので、参加者人数はかなりのものだったと思われる。山間の地域だったので、迂回路もない。なので交通規制はなく、道路交通法に基づくイベントとのことで、自家用車の私も通してはもらえた。

だが、車で通行する林道を走るランナーの視線には冷たいものを感じた(※直接言われたわけではない)。同時に疑問も感じた。

無言の声から私が(勝手に)読み取ったのは「私たちは健康増進につながるいいことをしているのに、なぜ一般車が通行して私たちの活動の邪魔をするのか」。確かにジョギングやマラソンは健康増進につながることではあるが、そのランナーご自身の健康については、こちらは知ったことではない。

「私たちのイベントは参加者人数が多い。多数が少数を制限するのは当然ではないか?」。これもこちらの勝手な被害妄想だが、かつて勤務していた博物館の行事でも同様のことを感じた。「私たちが今やっているのは博物館公式行事だ、参加者も多い。だからあなたたちのサークルの今日の活動は、こちらの都合にすべて合わせるべきだ。」 

人数が多ければ、民主主義なのか? お上のお墨付きの活動なら優先されるのか?

またランナーの中にはふざけた被り物をしている人もいて、こちらの嫌悪感は上昇した。これはハローウィンに渋谷や心斎橋で仮装している若者とノリが同じではないか? 「大人数なら他人に迷惑かけていい」という心理で、多数の迷惑行為がかつてあったのは事実。ランナーのみなさんも、似たような心理でこの場に臨んでいるのではないか?

私の車の前を走るランナーの一人は、イヤホンで音楽を聴いていて、こちらの存在には気づいていない。クラクションを鳴らすわけにもいかない。気づいてもらえるまで、かなり時間がかかった。

マラソン大会に、他のたくさんの方と一緒に参加することでモチベーションが上がるのは理解できる。ひとりでやっているよりは、たくさんの人と励まし合いながらのほうがいいだろう。

だが、それによって迷惑をしている人がいることも知ってほしいと思うのです。私は琵琶湖畔に居住しているので、春の「びわこマラソン」のように、選手によるレースならわかります。でも私は市民マラソンは嫌いなのです。

参加人数を動員人数にカウントして評価をしてもらおう、それで出世しようという、つまらない役人によるつまらない企画や発想ではないか、とさえ勘ぐっています。

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なるようにしかならない

いつまでも思い 悩んでも
事態が変わる わけじゃない
なるようになる なすがまま
なるようにしか ならないよ


神様はいるのかな
仏様はいるかな
どうしてどうして 僕にだけ
こんな試練を与えるの?


ため息ついても 泣いてても
時間が過ぎて行くばかり
なるようになる なすがまま
なるようにしか ならないよ


神社にも行きますから
お寺も行きますから
どうかどうかどうかお願い
神も仏も信じてます


祈る心は通じると
ずっと信じ続けます
なるようになる なすがまま
なるようにしか ならないよ


冷たい滝に打たれても
険しい山で倒れても
幸せな心を求めて
ずっとずっと耐え忍ぶ


このまま不幸は続かない
ことを願うばかりです
なるようになる なすがまま
なるようにしか ならないよ


神様はいる きっといる
仏様も きっといる
昨日や今日を憂うより
明日を信じ生きようよ

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成功体験

子供の頃は 神童と
呼ばれて褒めそやされていた
人も羨むよな知性
みんなが私を妬んだ

時の流れは非情なり
諸行無常の響きあり
輝いてたあの頃の自分
懐かしく悲しくもある

オリンピックだ万博だ
はるか昔の60年
前の成功体験で
無駄に税金つかってる

時の流れは非情なり
諸行無常の響きあり
輝いてたあの頃の自分
懐かしく悲しくもある

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アナロジー思考による先史時代の地名研究

地名研究会での研究発表

 2022年1月にとある地名研究会の研究フォーラムで、既発表の研究の内容(格助詞分解法:初宿, 2021)を紹介させていただいた。しかし、残念ながら、お聞きいただいた会場の皆さんには好適には受け止めてもらえなかったようであった。さらにその次号へ、前号を踏まえた内容の投稿(研究フォーラム当日でも口頭で一部紹介)をしたが、編集部からの答えは掲載不可(リジェクト)であった。

 リジェクトの理由について、編集部から説明はいっさい無かったが、その後、研究会会長と個人的にメールのやり取りをさせてもらって、なぜ掲載がなされなかったのかについて、ご説明をいただいた。要するに、格助詞分解法そのものが不確かな分析法である(言葉遊びに過ぎない)から、その曖昧さを踏まえたまま次の具体的地名の由来推定へと展開させるのは、砂上の楼閣であるというのである。


演繹法と帰納法

 地名研究に限らず、すべての学問研究は論理的に進めなければならないのは当然である。

 科学において論理的な方法は、主に以下の2つが取られる。すなわち、演繹法と帰納法である。前者は(曖昧でない)明白な前提に基づいて、後者は実例を多数列挙することによって、それぞれさらに高次元な真理へと導くものである。

 したがって、地名研究を着実に前に進め成果を得ようとするならば、当然ながら先人による明瞭な記述、すなわち歴史学的資料に基づくのが、もっとも無難で確実である。研究フォーラムや研究会の会誌に掲載される論文から、地名研究者の中には、歴史学の視点から地名の論考をされている方がとても多い。


先史時代と歴史時代

 人類が日本列島には到来したのは、旧石器時代の約4万年前ごろと考えられており、氷期が終焉して温暖化が進むと同時に、日本では縄文文明が開花した。しかし残念ながら、それに続く弥生時代・古墳時代を含め、文字による資料は全くというほど残っていない。記紀は時代が下がってからの聞き書きに過ぎないし、地名が掲載されている最古の文献としてしばしば登場する「和名抄」も「類聚名義抄」も平安時代のものである。出土した奈良時代等の木簡や風土記の記述を基にする場合も多々ある。しかしそれらは、日本列島の人類史のうち、きわめて最近のことに過ぎない(図1)。


図1.日本列島に人類が到来してからの実際の時間経過.

 私が先史時代について講演等でお話をさせていただく時に、聴衆が大きく誤解されていると感じるのは、旧石器時代や縄文時代の人々が原始的な人類、ともすれば半ば猿のような二足歩行さえもままならない存在と考えておられる点である。しかしいずれも、既にホモ・サピエンスとして十分に知能の発達した生物であり、もし彼らをタイムマシンで連れて来ることができるなら、現代人と同じように車に乗ったり、文字を覚えて、パソコンをも自由に使ったりする生活がおそらく可能である。

 よって「そんな古い時代に人類が地名を使っていたのか」という疑問を受けることになるが、答えとしては「地名は生活基盤のひとつであり、当然のごとく使っていたに違いない」ということになる。そして、それらを受けついだ状態で歴史時代に入って来ているはずである。

 地名研究者各位が異口同音に「地名は古代語の化石である」と述べておられるにも関わらず、歴史時代の文献にあたる作業に終始しているのでは、地名由来の本質的課題に踏み込むには不十分ではないだろうか。そして、「古い文献にそう書いてあるから由来はこうである」という地名由来の推定例が少なくないように思われたが、これは「ニワトリが先か卵が先か」というジレンマに類似していると感じる。


第3の論理的思考法=アブダクション(仮説的推論)

 論理的思考法について、先に演繹法と帰納法を挙げたが、実はもうひとつあり、それは「アブダクション(仮説的推論)」と呼ばれるものである。アメリカの科学哲学者C. パースによって提出された仮説提起による発見的思考法で、これを理解するにあたり、細谷功氏による著書「アナロジー思考」(東洋経済新報社, 2011)がたいへん参考になった。しかし、ここでその著者が述べておられるとおり、アブダクションの論理性は先の2つより弱い。だが、この方法によって、科学的な大発見がもたらされたこと(ヴェーゲナーによる大陸移動説、ニュートンによる万有引力の法則など)、さらに現代のビジネスへの応用にも有効であること、が述べられている。

 これによる科学的大発見のひとつに、ダーウィンの進化論がある。ダーウィンはキリスト教の教え、すなわち万物はすべて神が創造したとされていた時代に、「生物には進化の過程があり、人類は猿のような生き物から進化してきた」ことを述べた。もし「それを見せて証明してみろ」と言われても、生物の進化の過程を再現することはできないし、化石の発見例は断片的にすぎず不十分である。太古の生物のことは、現代に生きる生物同士の形態を比較して推定するしかない。コウモリの羽とクジラの胸鰭と人類の手のひらを、われわれは形態としても機能としても全く異なったものとして見ているが、実はこれらは「相同」の関係にあり、同一の起源から派生していったものである(図2)。ダーウィンはそれに気づいたのである。

 もちろん、当時はひどい批判にさらされた。しかし現代において、「万物はすべて神が創造された」として、進化論を未だに否定している人は、きわめて少数であろう。

図2.哺乳類3種における前肢.A:コウモリ、B:クジラ、C:ヒト

アブダクションによる先史時代の地名研究を

 筆者による格助詞分解法は、格助詞の有無だけが異なる地名・人名が存在すること、多くの地名が「神の居場所」を意味すると考えられること、に気づいて提唱したものである。そして、構成される語頭や格助詞や語尾は、決して出鱈目に付けられているわけではなく、それなりの法則性のようなものがあり、アブダクションによる論理性を十分に保持したものであると自負している(図3)。

図3.地名の格助詞分解法(初宿, 2021に加筆).

 歴史時代の地名研究法に比べて論理性に弱いことは認めるものの、日本列島において圧倒的に長い、文字の無い先史時代のことを推論するには、そんな方法しかないと考えている。その点で、先史時代の本州の地名をアイヌ語で解読しようとした故・永田良茂氏(永田、2021ほか)の姿勢そのものは、それなりに評価されるべきであると思う(※ただし、私の個人的な意見としては、永田氏の地名推論は表面的な類似性、つまり属性レベルでの類似の部分に固執したもので、アブダクションによる論理展開とはいい難い:細谷氏の言うダジャレのレベルであると思う)。

 地名研究という幅広く深いテーマにおいて、日本列島の圧倒的な人類の存在期間(=先史時代)を「確実な証拠がないから」と無視したり批判したり投稿をリジェクトしたりするような言動は、きわめて狭い論理的思考法からのものと言わざるを得ない。いわば、ダーウィンの進化論を既存の概念で頭から否定するようなもの、靴の上から痒いところを掻こうとするような行為ではないだろうか。


最後に

 2022年1月のフォーラムでは、会場から「歴史をもうちょっとちゃんと勉強したらどうか」あるいは「当研究会の伝統的な研究の方針や背景を理解して研究発表をしたらどうか」という意見があった。私はもちろん、歴史学は勉強していない。他方で、私は30年来、大阪市立自然史博物館で学芸員として勤務し、自然科学(特に昆虫類の分類・進化や旧石器時代・縄文時代・歴史時代の遺跡の昆虫化石・遺体)を取り扱ってきていて、論理的思考法あるいは先史時代・歴史時代の時間軸感覚について、それなりに体得しているつもりである。

 研究会において主に採用されている研究手法から外れたことによって、私の提唱した説が否定的に捉えられてしまったこと、さらにそれを踏まえた第2編の未発表の投稿論文がリジェクトされてしまったことは、たいへん残念であった。

 専門家がキャリアを重ねるうちに守備範囲や視野が狭くなってしまったり、これまでの経緯や定説にそぐわない新しいアイディアを上から叩きつぶしたり、したくなることは理解できる。しかし、学問研究はもっと自由であるべきで、特に地名由来は一般にも広く興味を持たれる内容でもある。私は大阪の博物館では「わからないことは一緒に調べましょう」というスタンスで、いくつもの研究サークルを運営し、ベテランの意見も新しく入ってきた方の意見も、出来る限り分け隔てなく取り扱うように強く意識してきた。

 某研究会についても「学会だ」「学会誌だ」とお高くとまることなく、他分野の研究者や在野研究者、さらには専門性からフリーな一般の方たちも広く交わり、一種のシチズンサイエンス(市民科学)として、プロもアマチュアも同じ高さの目線で進めていく姿勢が求められるべきであると考える。

永田良茂 2021.「地名探究 No. 18」提言「永田氏のアイヌ語地名論について」(小寺氏)への反論.地名探究 (19): 119-124.京都地名研究会.

細谷功 2011.アナロジー思考.東洋経済新報社、東京,255pp.

初宿成彦 2021.格助詞に着目した地名の要素分解.地名探究 (19): 59-64.京都地名研究会.

解説動画は下記↓

動画リンク



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松本人志氏の芸能活動休止について(自然史学的視点から?)

人の五大欲求として、食欲・性欲・睡眠欲・物欲・承認欲求があるが、これは人だけではなく(人志だけでもなく)、他の生物も持っている。

人類が今日に至るまでは、過去には猿、ネズミ、爬虫類のような生き物だった。そのような生存競争の厳しい中で命が代々続くように、神様はたいへん大きな性欲を与えられた。

地球の長い歴史の中では極めて最近になって、人類は叡智ある社会性動物へと進化した。だが人類は全員、神様が与えられた「不必要に大きな性欲」を持ったままでいる。松本氏もそのひとりである。なので、氏がそれを持っていることに罪はないし、恥じる必要もないし、それを報じられて、そこだけを責めるわけにもいかない(テレビでの若いころからの発言を見ると、他人より若干大きい気もする・・・)。

誰もがその「不必要に大きい性欲」を処理する方法に困っている。その状況の中では、やはり社会のルールが必要である。それは、迷惑している人がいるかいないかだと思う。

いわゆる痴漢行為は、その「不必要に大きい性欲」に基づいた行為だろうが、迷惑している人が必ずあるので、これは許されないことである。

週刊誌側の主張のように、当事者が当時からずっと迷惑しているということであれば、問題となっても仕方ない(=完全クロ)。

他方、タレント側の主張のように、(氏の家族や当事者も含め)誰も迷惑をしているという事実はないということであれば、問題にはならない(=完全シロ)。

その間のグレーな状況かもしれない。
・有名タレントだからということで、多少とも承知の上だった。
・当時はそうでもなかったが、今は嫌な思い出に変わった。
・週刊誌で報道されたほうが面白いし儲かるから、そういうことにした。
などなど・・・

いわゆる忖度によって、着地点が権力の強い側に出ることがあるように思うので、そのあたりにも配慮しながら、判断が下されることを望む。

PS. とにかく上記の如何にかかわらず、「ガキの使い」は毎週見ているので、これに松本氏が出なくなるなら残念だ。

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