朝陽は昇っちまう

取るに足らない自尊心
酒に頼って守ってる
酔いが覚めないそのうちに
もう朝陽は昇っちまう

お風呂に入る気力がない
横になっているばかり
身だしなみはひどいもの
ああ朝陽は昇っちまう

トラブルが追い重なって
絶望感に襲われて
汗だくになって目が覚める
やがて朝陽は昇っちまう

ふとんからは出たくない
誰にも会いたい気がしない
またきっと今日も叱られる
でも朝陽は昇っちまう

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この世は住みにくい

朝と夕方の駅には
たくさん人がいるけれど
みんな暗い顔してる
笑顔の人は見当たらない

学校や塾の教室で
みんな机にかじりつき
問題集を解いている
子供らしさはどこにも無い

この世はいったいいつから
住みにくくなったのかなあ
明日が来るのが怖いから
ため息ばかりをついている

ネットの書き込み誤解され
収拾つかずに大炎上
誤解が誤解を生み出して
誹謗中傷 雨あられ

西を向いても暗い空
東を向いても雨模様
踏み出す勇気が持てなくて
引きこもるしかありません

この世はいったいいつから
住みにくくなったのかなあ
明日が来るのが怖いから
ため息ばかりをついている

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作詞のまとめページ

●作曲リリース済

カメムシ音頭


なってもぅた


●作曲作業中

Ro-Byo-Shi(老病死)

偽善者

輝く地球の命

人間の愚


●作曲未着手

<あ>
明けない夜は無い
朝陽は昇っちまう

幼い子供たちに
思いやり助け合い
俺の背中

<か>
勝手にしてやる
亀の甲より年の劫
期待に応えられなかった
季節と命の喜びを

心だけはピカピカ

この世は住みにくい

<さ>
幸せはどこにある?
自分の道
十虫十色
縄文人
成功体験

<た>
太陽がのぼったら

<な>
流れる時の中で
なるようにしかならない
人間なんて不平等

<は>
日陰の花
プレイヤーの詩

<ま>
まずは自分が笑おう
真夜中のLAMENTATION

<や>
やりたいことをやれ
ゆっくりでいい
夢の中で飛びまわる

<ら>

<わ>
若者たち 今むかし
若者に告ぐ

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自己受容法=「恥ずかしい」からの脱却

 プライドとコンプレックス(劣等感)は表裏一体のものであると聞いて、一瞬よくわからなかったが、いろんな人を観察してみて、確かにいわゆるプライドの高い人の根底には、同程度のコンプレックスの存在が見えてきた。それでは幸せといえない。逆にどちらも少ない人は、自分なりの持ち合わせのスペックでもって人生を歩み、たいへん幸せな心が得られている。

 これはそれらの人の能力や成績とは無関係で、心の中だけの問題である。能力が上なら幸せというわけではない。知り合いの先生ですごい研究の成果を出しているのに、コンプレックスの塊のような方がいる(なので相当プライドも高く威張り散らしている)。

 とはいえ、特にプライドの高い人にとって、自分のダメな部分に目を背けず、直視して受け入れることは難しい。私自身、まったく脱却できていない人間だ。

 自分なりにその方法を思案したが、それはすなわち「恥ずかしい」の感情を捨てることなのかなと思っている。他人に見せたい理想の自分と、実際そうじゃない自分とのギャップに「恥ずかしい」の感情が生じる。 それはすなわちコンプレックスである。私自身、過去のうまくいかなかった事を思い出し、「恥ずかしい」「消し去りたい」という気持ちになることがしばしばある。その気持ちを解消するため、優越感を見せつける言動が多くなったりする。

 だが実は他人は本人が思うよりもっと「コイツはそんなもんだ」と、現実の自分の程度を既に知っているような気がしている。また他人から私への関心は、私が思っているよりかなり低い。

 なので、その人の消し去りたいコンプレックスを「恥ずかしい」と思っているのは、ほとんど本人だけであって、他人にはかなりどうでもいい話なのである。

 こう考えれば、「自分なんてそんなもんだ」と受け入れることができる(のかな?)。

 さらに人の目を気にしない自己肯定感が得られれば、おそらくより幸せな心で日々の生活が送れる(のかな?)

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ホリエモン氏はフジテレビ社長にはならないほうがいいと思う

 フジテレビが大騒ぎになっている。かつて買収しようとしたホリエモンこと堀江貴文氏を新社長にと推す声がある。

 物事にはタイミングというものがある。私も「これが20年前に出来る環境があったら、あれこれ違ったのに」と思うことがある。もちろん逆に幸運のタイミングに恵まれたと思うのもある。

 ホリエモン氏があのころ社長になってたら、いろんなことが(当時の)若い発想で変えることができたかもしれないと思う。でも、仮に買収の横やりをすべて排除して成功していたとしても、たぶん新しい社風にはなってなかったとも思う。おそらく既得権益にまみれた社内での大抵抗に遭い、何らかの形でいずれ、改革は潰されていただろう。だから今回、もし社長になったとしても、ほぼ同じことだろうと思う。

 既得権益にしがみつく姿勢は保守的と見られやすいが、リベラル・改革側と呼ばれる労働組合は既得権益の塊だ。労働者の最低限の生活の保障を求めるのは当然としても、無いものねだり(やって獲得できた者が勝ち)が目に余ると感じたころがある。

 要するに、日本社会のほとんどが既得権益で構成されているのである。このような社会構造が、若い人たちにとっての「タイミング」(上述)を減らしているように思う。だから日本の将来は暗いのだ。

 ホリエモン氏は現在のように、社会に向かって真っすぐ意見を発信する立場のほうが、楽しく人生を過ごせるのじゃないかなと思う。

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心だけはピカピカ

僕はもう55のオッサンで
顔のしわも増えたけど
心だけはピカピカやぞと
君らには言える

自分を信じて新しいことにトライしてる
他人と比べるのはやめた
人の眼を気にしなくなった
自分だけの定規でこの世を計ってる

人として生まれたんやから
自由に生きたらいい
自分のエエとこアカンとこ
そのうち自分で気づくから

でも他人には迷惑かけたらアカン
人をわざとつまずかせて
自分の順位を上げたらアカン
負けて気づくほうが多かったりするんやで

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パワハラの被害経験

 兵庫県知事のパワハラ疑惑の件、特に興味があるわけでもないのだが、SNSで「人前での叱責はパワハラに相当する」というのを見聞きして、ひとつ私自身の被害経験を思い出した。

 大阪市立自然史博物館の学芸員としての勤務時代、友の会会員さんらとダンスを踊って、それをYoutubeにアップするというアイディアが若手から出され、私はカチンコとメガホンもって座っているだけの無口な(?)監督役をなぜか演じることになった。

 高いところから撮影をする必要があって、高所作業用のリフトを使うことになった。しかし忘れ物があった何かで、その場所から離れてしまった。

 K(2024年現在館長←当時課長)による館内一斉放送による呼び出しがあって、みなさんの前でリフトの鍵が刺さったままであることを叱責された。

 友の会会員の子供が触ったりするかもしれないので、それは確かに危なかった。しかし本当にもし会員さんの安全を心配するなら、Kがまず最初にすべきことは、刺さっている鍵をリフトから抜くことである。

 この人物の行動の目的が何であったかは。火を見るより明らかだ。

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市民「マラソン」イベントへの嫌悪感

先だって訪れたところで、市民マラソン大会に出くわした。3時間ほどでもランナーが途切れないぐらいだったので、参加者人数はかなりのものだったと思われる。山間の地域だったので、迂回路もない。なので交通規制はなく、道路交通法に基づくイベントとのことで、自家用車の私も通してはもらえた。

だが、車で通行する林道を走るランナーの視線には冷たいものを感じた(※直接言われたわけではない)。同時に疑問も感じた。

無言の声から私が(勝手に)読み取ったのは「私たちは健康増進につながるいいことをしているのに、なぜ一般車が通行して私たちの活動の邪魔をするのか」。確かにジョギングやマラソンは健康増進につながることではあるが、そのランナーご自身の健康については、こちらは知ったことではない。

「私たちのイベントは参加者人数が多い。多数が少数を制限するのは当然ではないか?」。これもこちらの勝手な被害妄想だが、かつて勤務していた博物館の行事でも同様のことを感じた。「私たちが今やっているのは博物館公式行事だ、参加者も多い。だからあなたたちのサークルの今日の活動は、こちらの都合にすべて合わせるべきだ。」 

人数が多ければ、民主主義なのか? お上のお墨付きの活動なら優先されるのか?

またランナーの中にはふざけた被り物をしている人もいて、こちらの嫌悪感は上昇した。これはハローウィンに渋谷や心斎橋で仮装している若者とノリが同じではないか? 「大人数なら他人に迷惑かけていい」という心理で、多数の迷惑行為がかつてあったのは事実。ランナーのみなさんも、似たような心理でこの場に臨んでいるのではないか?

私の車の前を走るランナーの一人は、イヤホンで音楽を聴いていて、こちらの存在には気づいていない。クラクションを鳴らすわけにもいかない。気づいてもらえるまで、かなり時間がかかった。

マラソン大会に、他のたくさんの方と一緒に参加することでモチベーションが上がるのは理解できる。ひとりでやっているよりは、たくさんの人と励まし合いながらのほうがいいだろう。

だが、それによって迷惑をしている人がいることも知ってほしいと思うのです。私は琵琶湖畔に居住しているので、春の「びわこマラソン」のように、選手によるレースならわかります。でも私は市民マラソンは嫌いなのです。

参加人数を動員人数にカウントして評価をしてもらおう、それで出世しようという、つまらない役人によるつまらない企画や発想ではないか、とさえ勘ぐっています。

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なるようにしかならない

いつまでも思い 悩んでも
事態が変わる わけじゃない
なるようになる なすがまま
なるようにしか ならないよ


神様はいるのかな
仏様はいるかな
どうしてどうして 僕にだけ
こんな試練を与えるの?


ため息ついても 泣いてても
時間が過ぎて行くばかり
なるようになる なすがまま
なるようにしか ならないよ


神社にも行きますから
お寺も行きますから
どうかどうかどうかお願い
神も仏も信じてます


祈る心は通じると
ずっと信じ続けます
なるようになる なすがまま
なるようにしか ならないよ


冷たい滝に打たれても
険しい山で倒れても
幸せな心を求めて
ずっとずっと耐え忍ぶ


このまま不幸は続かない
ことを願うばかりです
なるようになる なすがまま
なるようにしか ならないよ


神様はいる きっといる
仏様も きっといる
昨日や今日を憂うより
明日を信じ生きようよ

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成功体験

子供の頃は 神童と
呼ばれて褒めそやされていた
人も羨むよな知性
みんなが私を妬んだ

時の流れは非情なり
諸行無常の響きあり
輝いてたあの頃の自分
懐かしく悲しくもある

オリンピックだ万博だ
はるか昔の60年
前の成功体験で
無駄に税金つかってる

時の流れは非情なり
諸行無常の響きあり
輝いてたあの頃の自分
懐かしく悲しくもある

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