ホリエモン氏はフジテレビ社長にはならないほうがいいと思う

 フジテレビが大騒ぎになっている。かつて買収しようとしたホリエモンこと堀江貴文氏を新社長にと推す声がある。

 物事にはタイミングというものがある。私も「これが20年前に出来る環境があったら、あれこれ違ったのに」と思うことがある。もちろん逆に幸運のタイミングに恵まれたと思うのもある。

 ホリエモン氏があのころ社長になってたら、いろんなことが(当時の)若い発想で変えることができたかもしれないと思う。でも、仮に買収の横やりをすべて排除して成功していたとしても、たぶん新しい社風にはなってなかったとも思う。おそらく既得権益にまみれた社内での大抵抗に遭い、何らかの形でいずれ、改革は潰されていただろう。だから今回、もし社長になったとしても、ほぼ同じことだろうと思う。

 既得権益にしがみつく姿勢は保守的と見られやすいが、リベラル・改革側と呼ばれる労働組合は既得権益の塊だ。労働者の最低限の生活の保障を求めるのは当然としても、無いものねだり(やって獲得できた者が勝ち)が目に余ると感じたころがある。

 要するに、日本社会のほとんどが既得権益で構成されているのである。このような社会構造が、若い人たちにとっての「タイミング」(上述)を減らしているように思う。だから日本の将来は暗いのだ。

 ホリエモン氏は現在のように、社会に向かって真っすぐ意見を発信する立場のほうが、楽しく人生を過ごせるのじゃないかなと思う。

カテゴリー: 雑感 | コメントする

心だけはピカピカ

僕はもう55のオッサンで
顔のしわも増えたけど
心だけはピカピカやぞと
君らには言える

自分を信じて新しいことにトライしてる
他人と比べるのはやめた
人の眼を気にしなくなった
自分だけの定規でこの世を計ってる

人として生まれたんやから
自由に生きたらいい
自分のエエとこアカンとこ
そのうち自分で気づくから

でも他人には迷惑かけたらアカン
人をわざとつまずかせて
自分の順位を上げたらアカン
負けて気づくほうが多かったりするんやで

カテゴリー: 作詞 | コメントする

市民「マラソン」イベントへの嫌悪感

先だって訪れたところで、市民マラソン大会に出くわした。3時間ほどでもランナーが途切れないぐらいだったので、参加者人数はかなりのものだったと思われる。山間の地域だったので、迂回路もない。なので交通規制はなく、道路交通法に基づくイベントとのことで、自家用車の私も通してはもらえた。

だが、車で通行する林道を走るランナーの視線には冷たいものを感じた(※直接言われたわけではない)。同時に疑問も感じた。

無言の声から私が(勝手に)読み取ったのは「私たちは健康増進につながるいいことをしているのに、なぜ一般車が通行して私たちの活動の邪魔をするのか」。確かにジョギングやマラソンは健康増進につながることではあるが、そのランナーご自身の健康については、こちらは知ったことではない。

「私たちのイベントは参加者人数が多い。多数が少数を制限するのは当然ではないか?」。これもこちらの勝手な被害妄想だが、かつて勤務していた博物館の行事でも同様のことを感じた。「私たちが今やっているのは博物館公式行事だ、参加者も多い。だからあなたたちのサークルの今日の活動は、こちらの都合にすべて合わせるべきだ。」 

人数が多ければ、民主主義なのか? お上のお墨付きの活動なら優先されるのか?

またランナーの中にはふざけた被り物をしている人もいて、こちらの嫌悪感は上昇した。これはハローウィンに渋谷や心斎橋で仮装している若者とノリが同じではないか? 「大人数なら他人に迷惑かけていい」という心理で、多数の迷惑行為がかつてあったのは事実。ランナーのみなさんも、似たような心理でこの場に臨んでいるのではないか?

私の車の前を走るランナーの一人は、イヤホンで音楽を聴いていて、こちらの存在には気づいていない。クラクションを鳴らすわけにもいかない。気づいてもらえるまで、かなり時間がかかった。

マラソン大会に、他のたくさんの方と一緒に参加することでモチベーションが上がるのは理解できる。ひとりでやっているよりは、たくさんの人と励まし合いながらのほうがいいだろう。

だが、それによって迷惑をしている人がいることも知ってほしいと思うのです。私は琵琶湖畔に居住しているので、春の「びわこマラソン」のように、選手によるレースならわかります。でも私は市民マラソンは嫌いなのです。

参加人数を動員人数にカウントして評価をしてもらおう、それで出世しようという、つまらない役人によるつまらない企画や発想ではないか、とさえ勘ぐっています。

カテゴリー: 未分類 | コメントする

なるようにしかならない

いつまでも思い 悩んでも
事態が変わる わけじゃない
なるようになる なすがまま
なるようにしか ならないよ


神様はいるのかな
仏様はいるかな
どうしてどうして 僕にだけ
こんな試練を与えるの?


ため息ついても 泣いてても
時間が過ぎて行くばかり
なるようになる なすがまま
なるようにしか ならないよ


神社にも行きますから
お寺も行きますから
どうかどうかどうかお願い
神も仏も信じてます


祈る心は通じると
ずっと信じ続けます
なるようになる なすがまま
なるようにしか ならないよ


冷たい滝に打たれても
険しい山で倒れても
幸せな心を求めて
ずっとずっと耐え忍ぶ


このまま不幸は続かない
ことを願うばかりです
なるようになる なすがまま
なるようにしか ならないよ


神様はいる きっといる
仏様も きっといる
昨日や今日を憂うより
明日を信じ生きようよ

カテゴリー: 作詞 | コメントする

成功体験

子供の頃は 神童と
呼ばれて褒めそやされていた
人も羨むよな知性
みんなが私を妬んだ

時の流れは非情なり
諸行無常の響きあり
輝いてたあの頃の自分
懐かしく悲しくもある

オリンピックだ万博だ
はるか昔の60年
前の成功体験で
無駄に税金つかってる

時の流れは非情なり
諸行無常の響きあり
輝いてたあの頃の自分
懐かしく悲しくもある

カテゴリー: 作詞 | コメントする

松本人志氏の芸能活動休止について(自然史学的視点から?)

人の五大欲求として、食欲・性欲・睡眠欲・物欲・承認欲求があるが、これは人だけではなく(人志だけでもなく)、他の生物も持っている。

人類が今日に至るまでは、過去には猿、ネズミ、爬虫類のような生き物だった。そのような生存競争の厳しい中で命が代々続くように、神様はたいへん大きな性欲を与えられた。

地球の長い歴史の中では極めて最近になって、人類は叡智ある社会性動物へと進化した。だが人類は全員、神様が与えられた「不必要に大きな性欲」を持ったままでいる。松本氏もそのひとりである。なので、氏がそれを持っていることに罪はないし、恥じる必要もないし、それを報じられて、そこだけを責めるわけにもいかない(テレビでの若いころからの発言を見ると、他人より若干大きい気もする・・・)。

誰もがその「不必要に大きい性欲」を処理する方法に困っている。その状況の中では、やはり社会のルールが必要である。それは、迷惑している人がいるかいないかだと思う。

いわゆる痴漢行為は、その「不必要に大きい性欲」に基づいた行為だろうが、迷惑している人が必ずあるので、これは許されないことである。

週刊誌側の主張のように、当事者が当時からずっと迷惑しているということであれば、問題となっても仕方ない(=完全クロ)。

他方、タレント側の主張のように、(氏の家族や当事者も含め)誰も迷惑をしているという事実はないということであれば、問題にはならない(=完全シロ)。

その間のグレーな状況かもしれない。
・有名タレントだからということで、多少とも承知の上だった。
・当時はそうでもなかったが、今は嫌な思い出に変わった。
・週刊誌で報道されたほうが面白いし儲かるから、そういうことにした。
などなど・・・

いわゆる忖度によって、着地点が権力の強い側に出ることがあるように思うので、そのあたりにも配慮しながら、判断が下されることを望む。

PS. とにかく上記の如何にかかわらず、「ガキの使い」は毎週見ているので、これに松本氏が出なくなるなら残念だ。

カテゴリー: 第四紀学, 随想 | タグ: , , , , | コメントする

2024年の抱負

2024年を迎えました。

2022年3月に大阪市立自然史博物館を退職後、まもなく2年になります。2022年から2023年は生活がさらに大きく変わり、まだ安定していません。

2023年からは、年老いた両親のお世話、週1の追手門学院大学での講義、アメリカ農務省と共同の害虫調査が始まりましたが、可能な範囲内で継続できればと思っています。

2024年は出版事業を本格的に開始したいと考えています。2023年は「ことばの違和感」(初宿正典)だけでしたが、春までに2冊の出版を準備しており、年末までにはさらに数冊出せればと考えています。

Youtubeでの動画作成、音楽制作なども考えています。まだ「窓蛍舎」のチャンネル登録者が300人ほどですが、収益化できる1000人を目指しています。50歳を過ぎてアイディア創作力も枯れてきましたが、初心の戻ってがんばりたいと思います。

宮崎県綾での甲虫相解明、8月の京都での国際昆虫学会での発表、も楽しみにしています。

本年もよろしくお願いいたします。

カテゴリー: 未分類 | コメントする

七十二候「寒蝉鳴」はヒグラシではない

暦のひとつに二十四節気七十二候がある。もともとは中国の戦国時代(紀元前5~3世紀)に作られたものが伝わった。二十四節気は初候・次候・末候に三分割され、それらが七十二候である(24×3=72)。しかし、日本の暦とは合わないため、江戸時代前期に渋川春海によって本朝七十二候が著わされた。二十四節気は元のまま現代も使われている。立春、春分、夏至などは馴染みがある。

渋川による二十四節気「立秋」の次候(8月12日から17日ごろ)は「寒蝉鳴」とされ、どの本を開いても「ヒグラシが鳴き始める」と解釈されている。でも1ケ月遅いと思う。ヒグラシは俳句でも秋の季語とされているが、出現期はアブラゼミやクマゼミとほとんど同じで、実際は夏のセミである。
中国の元の七十二候 では「寒蟬鳴」はさらに遅い末候(8月18から22日ごろ)となっている。

「寒蝉」はヒグラシではないと思う。そもそも、日本でいうヒグラシは日本固有種だ。

中国語で調べてみると、「寒蝉」は今も中国で使われていて、ツクツクボウシ属 Meimuna のこととある。

よってツクツクボウシ(松寒蝉 Meimuna opalifera)またはコマゼミ(蒙古寒蝉 Meimuna mongolica)が有力な候補であると考えられる。

後者は日本には分布しないが、韓国ソウルに8月後半に行った折、やや深い森で盛んに鳴いていた。市街地にはいなかった。

8月中旬でもヒグラシは鳴いてはいるが、「鳴き始める」との表記をするならば、「ツクツクボウシが鳴き始める」という解釈に変更すべきだろう。

※下記はコマゼミの鳴き声。Youtube動画:窓蛍舎チャンネルより。

カテゴリー: 昆虫学 | コメントする

ミカンの自然史

ミカンはおいしい。いうまでもない。

ミカンについて、あれこれ書くことにした

ミネオラ

=45点

プラスポイント

やわらかく手でむける

種がない

味は甘い

ボリュームと値段は温州ミカンと同等

マイナスポイント

汁がじゅるじゅるこぼれる  

房に分けようとすると更にじゅるじゅるこぼれる

なので複数の房のままをかぶりつく。内袋は少し固め、できれば剥きたかった。

皮のごわごわ度:やわらかく手でむける20点

内袋:食えんことはない10点

食べるときの快適さ:種がないが、汁がじゅるじゅるこぼれる。5点

味:甘い、けっこう好き、20点

ボリューム:温州ミカンのサイズ,、5点

値段:ひとつあたり100円以下でお手頃、20点

分類:タンゼロ類(みかん類とグレープフルーツ類の交配)

原産地:アメリカ

栽培地:オーストラリア

アフォーラ

55点

40代しか食べたらあかんのかと思った(アラフォー)が、でもよく見たら「アフォーラ」だった。日本の温州みかんと同様、確かに外皮を手でむけるが、手がベトベトになる。味は甘さが強く酸味がなくてgood。オーストラリア産。防カビ剤があれこれ入ってる。

由来や分類については調査中。

カテゴリー: 未分類 | コメントする

北海道地名はアイヌ語か?

Youtube上での情報だが、最近、(どちらかというと)右、すなわちナショナリスト系のYoutuberの方々の動画に、「アイヌ民族を北海道の原住民と認めてしまったこと」の如何を問う動きが多いように感じる。

たしかに遺跡を見ても、縄文時代は本州と共通しても、弥生時代の代わりに続縄文時代が次に続き、その後は東部やオホーツク地域ではオホーツク文化が、それ以外では擦文文化の遺物が産出し、アイヌ文化時代は本州でいう鎌倉時代に入ってからである。アイヌ民族は鎌倉時代にサハリン(樺太)から南下してきたという。

私は本州の地名が縄文時代から継続されていると考えているが、地名の不変性が同様に適用されるのであれば、北海道の地名も鎌倉時代以後のアイヌ民族が使っていたアイヌ語で説明するのは不自然ではないかという思いを抱いている

たとえば・・・

「ワ」:本州では「わだつみ」などが示すように水と関係する。北海道では「カムイワッカ」(神の水)のように水と関係する。

「シリ」:利尻、奥尻、国後など、島を示す接尾語であるが、「シリ」が「シマ」になった関連性を感じる。

いずれにせよ、もう少し探究が必要である。

だが、上記Youtuberらが主張するように、北海道は和人がアイヌの土地を室町時代から明治にかけて、強制的に奪って追いやったのではなく、もともと縄文人(本州と同系列の民族)がいたところを北から鎌倉時代にやってきたアイヌ民族が北海道を強制的に奪って追いやった、その後、和人が南からアイヌ民族を追い返した、という解釈も、可能なのかもしれないと思っている。

なので、北海道の地名は本州の地名と同じ視点から、解明を試みる必要があると思っている。

カテゴリー: 地名由来・語源由来 | コメントする