なるようにしかならない

いつまでも思い 悩んでも
事態が変わる わけじゃない
なるようになる なすがまま
なるようにしか ならないよ


神様はいるのかな
仏様はいるかな
どうしてどうして 僕にだけ
こんな試練を与えるの?


ため息ついても 泣いてても
時間が過ぎて行くばかり
なるようになる なすがまま
なるようにしか ならないよ


神社にも行きますから
お寺も行きますから
どうかどうかどうかお願い
神も仏も信じてます


祈る心は通じると
ずっと信じ続けます
なるようになる なすがまま
なるようにしか ならないよ


冷たい滝に打たれても
険しい山で倒れても
幸せな心を求めて
ずっとずっと耐え忍ぶ


このまま不幸は続かない
ことを願うばかりです
なるようになる なすがまま
なるようにしか ならないよ


神様はいる きっといる
仏様も きっといる
昨日や今日を憂うより
明日を信じ生きようよ

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成功体験

子供の頃は 神童と
呼ばれて褒めそやされていた
人も羨むよな知性
みんなが私を妬んだ

時の流れは非情なり
諸行無常の響きあり
輝いてたあの頃の自分
懐かしく悲しくもある

オリンピックだ万博だ
はるか昔の60年
前の成功体験で
無駄に税金つかってる

時の流れは非情なり
諸行無常の響きあり
輝いてたあの頃の自分
懐かしく悲しくもある

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アナロジー思考による先史時代の地名研究

地名研究会での研究発表

 2022年1月にとある地名研究会の研究フォーラムで、既発表の研究の内容(格助詞分解法:初宿, 2021)を紹介させていただいた。しかし、残念ながら、お聞きいただいた会場の皆さんには好適には受け止めてもらえなかったようであった。さらにその次号へ、前号を踏まえた内容の投稿(研究フォーラム当日でも口頭で一部紹介)をしたが、編集部からの答えは掲載不可(リジェクト)であった。

 リジェクトの理由について、編集部から説明はいっさい無かったが、その後、研究会会長と個人的にメールのやり取りをさせてもらって、なぜ掲載がなされなかったのかについて、ご説明をいただいた。要するに、格助詞分解法そのものが不確かな分析法である(言葉遊びに過ぎない)から、その曖昧さを踏まえたまま次の具体的地名の由来推定へと展開させるのは、砂上の楼閣であるというのである。


演繹法と帰納法

 地名研究に限らず、すべての学問研究は論理的に進めなければならないのは当然である。

 科学において論理的な方法は、主に以下の2つが取られる。すなわち、演繹法と帰納法である。前者は(曖昧でない)明白な前提に基づいて、後者は実例を多数列挙することによって、それぞれさらに高次元な真理へと導くものである。

 したがって、地名研究を着実に前に進め成果を得ようとするならば、当然ながら先人による明瞭な記述、すなわち歴史学的資料に基づくのが、もっとも無難で確実である。研究フォーラムや研究会の会誌に掲載される論文から、地名研究者の中には、歴史学の視点から地名の論考をされている方がとても多い。


先史時代と歴史時代

 人類が日本列島には到来したのは、旧石器時代の約4万年前ごろと考えられており、氷期が終焉して温暖化が進むと同時に、日本では縄文文明が開花した。しかし残念ながら、それに続く弥生時代・古墳時代を含め、文字による資料は全くというほど残っていない。記紀は時代が下がってからの聞き書きに過ぎないし、地名が掲載されている最古の文献としてしばしば登場する「和名抄」も「類聚名義抄」も平安時代のものである。出土した奈良時代等の木簡や風土記の記述を基にする場合も多々ある。しかしそれらは、日本列島の人類史のうち、きわめて最近のことに過ぎない(図1)。


図1.日本列島に人類が到来してからの実際の時間経過.

 私が先史時代について講演等でお話をさせていただく時に、聴衆が大きく誤解されていると感じるのは、旧石器時代や縄文時代の人々が原始的な人類、ともすれば半ば猿のような二足歩行さえもままならない存在と考えておられる点である。しかしいずれも、既にホモ・サピエンスとして十分に知能の発達した生物であり、もし彼らをタイムマシンで連れて来ることができるなら、現代人と同じように車に乗ったり、文字を覚えて、パソコンをも自由に使ったりする生活がおそらく可能である。

 よって「そんな古い時代に人類が地名を使っていたのか」という疑問を受けることになるが、答えとしては「地名は生活基盤のひとつであり、当然のごとく使っていたに違いない」ということになる。そして、それらを受けついだ状態で歴史時代に入って来ているはずである。

 地名研究者各位が異口同音に「地名は古代語の化石である」と述べておられるにも関わらず、歴史時代の文献にあたる作業に終始しているのでは、地名由来の本質的課題に踏み込むには不十分ではないだろうか。そして、「古い文献にそう書いてあるから由来はこうである」という地名由来の推定例が少なくないように思われたが、これは「ニワトリが先か卵が先か」というジレンマに類似していると感じる。


第3の論理的思考法=アブダクション(仮説的推論)

 論理的思考法について、先に演繹法と帰納法を挙げたが、実はもうひとつあり、それは「アブダクション(仮説的推論)」と呼ばれるものである。アメリカの科学哲学者C. パースによって提出された仮説提起による発見的思考法で、これを理解するにあたり、細谷功氏による著書「アナロジー思考」(東洋経済新報社, 2011)がたいへん参考になった。しかし、ここでその著者が述べておられるとおり、アブダクションの論理性は先の2つより弱い。だが、この方法によって、科学的な大発見がもたらされたこと(ヴェーゲナーによる大陸移動説、ニュートンによる万有引力の法則など)、さらに現代のビジネスへの応用にも有効であること、が述べられている。

 これによる科学的大発見のひとつに、ダーウィンの進化論がある。ダーウィンはキリスト教の教え、すなわち万物はすべて神が創造したとされていた時代に、「生物には進化の過程があり、人類は猿のような生き物から進化してきた」ことを述べた。もし「それを見せて証明してみろ」と言われても、生物の進化の過程を再現することはできないし、化石の発見例は断片的にすぎず不十分である。太古の生物のことは、現代に生きる生物同士の形態を比較して推定するしかない。コウモリの羽とクジラの胸鰭と人類の手のひらを、われわれは形態としても機能としても全く異なったものとして見ているが、実はこれらは「相同」の関係にあり、同一の起源から派生していったものである(図2)。ダーウィンはそれに気づいたのである。

 もちろん、当時はひどい批判にさらされた。しかし現代において、「万物はすべて神が創造された」として、進化論を未だに否定している人は、きわめて少数であろう。

図2.哺乳類3種における前肢.A:コウモリ、B:クジラ、C:ヒト

アブダクションによる先史時代の地名研究を

 筆者による格助詞分解法は、格助詞の有無だけが異なる地名・人名が存在すること、多くの地名が「神の居場所」を意味すると考えられること、に気づいて提唱したものである。そして、構成される語頭や格助詞や語尾は、決して出鱈目に付けられているわけではなく、それなりの法則性のようなものがあり、アブダクションによる論理性を十分に保持したものであると自負している(図3)。

図3.地名の格助詞分解法(初宿, 2021に加筆).

 歴史時代の地名研究法に比べて論理性に弱いことは認めるものの、日本列島において圧倒的に長い、文字の無い先史時代のことを推論するには、そんな方法しかないと考えている。その点で、先史時代の本州の地名をアイヌ語で解読しようとした故・永田良茂氏(永田、2021ほか)の姿勢そのものは、それなりに評価されるべきであると思う(※ただし、私の個人的な意見としては、永田氏の地名推論は表面的な類似性、つまり属性レベルでの類似の部分に固執したもので、アブダクションによる論理展開とはいい難い:細谷氏の言うダジャレのレベルであると思う)。

 地名研究という幅広く深いテーマにおいて、日本列島の圧倒的な人類の存在期間(=先史時代)を「確実な証拠がないから」と無視したり批判したり投稿をリジェクトしたりするような言動は、きわめて狭い論理的思考法からのものと言わざるを得ない。いわば、ダーウィンの進化論を既存の概念で頭から否定するようなもの、靴の上から痒いところを掻こうとするような行為ではないだろうか。


最後に

 2022年1月のフォーラムでは、会場から「歴史をもうちょっとちゃんと勉強したらどうか」あるいは「当研究会の伝統的な研究の方針や背景を理解して研究発表をしたらどうか」という意見があった。私はもちろん、歴史学は勉強していない。他方で、私は30年来、大阪市立自然史博物館で学芸員として勤務し、自然科学(特に昆虫類の分類・進化や旧石器時代・縄文時代・歴史時代の遺跡の昆虫化石・遺体)を取り扱ってきていて、論理的思考法あるいは先史時代・歴史時代の時間軸感覚について、それなりに体得しているつもりである。

 研究会において主に採用されている研究手法から外れたことによって、私の提唱した説が否定的に捉えられてしまったこと、さらにそれを踏まえた第2編の未発表の投稿論文がリジェクトされてしまったことは、たいへん残念であった。

 専門家がキャリアを重ねるうちに守備範囲や視野が狭くなってしまったり、これまでの経緯や定説にそぐわない新しいアイディアを上から叩きつぶしたり、したくなることは理解できる。しかし、学問研究はもっと自由であるべきで、特に地名由来は一般にも広く興味を持たれる内容でもある。私は大阪の博物館では「わからないことは一緒に調べましょう」というスタンスで、いくつもの研究サークルを運営し、ベテランの意見も新しく入ってきた方の意見も、出来る限り分け隔てなく取り扱うように強く意識してきた。

 某研究会についても「学会だ」「学会誌だ」とお高くとまることなく、他分野の研究者や在野研究者、さらには専門性からフリーな一般の方たちも広く交わり、一種のシチズンサイエンス(市民科学)として、プロもアマチュアも同じ高さの目線で進めていく姿勢が求められるべきであると考える。

永田良茂 2021.「地名探究 No. 18」提言「永田氏のアイヌ語地名論について」(小寺氏)への反論.地名探究 (19): 119-124.京都地名研究会.

細谷功 2011.アナロジー思考.東洋経済新報社、東京,255pp.

初宿成彦 2021.格助詞に着目した地名の要素分解.地名探究 (19): 59-64.京都地名研究会.

解説動画は下記↓

動画リンク



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松本人志氏の芸能活動休止について(自然史学的視点から?)

人の五大欲求として、食欲・性欲・睡眠欲・物欲・承認欲求があるが、これは人だけではなく(人志だけでもなく)、他の生物も持っている。

人類が今日に至るまでは、過去には猿、ネズミ、爬虫類のような生き物だった。そのような生存競争の厳しい中で命が代々続くように、神様はたいへん大きな性欲を与えられた。

地球の長い歴史の中では極めて最近になって、人類は叡智ある社会性動物へと進化した。だが人類は全員、神様が与えられた「不必要に大きな性欲」を持ったままでいる。松本氏もそのひとりである。なので、氏がそれを持っていることに罪はないし、恥じる必要もないし、それを報じられて、そこだけを責めるわけにもいかない(テレビでの若いころからの発言を見ると、他人より若干大きい気もする・・・)。

誰もがその「不必要に大きい性欲」を処理する方法に困っている。その状況の中では、やはり社会のルールが必要である。それは、迷惑している人がいるかいないかだと思う。

いわゆる痴漢行為は、その「不必要に大きい性欲」に基づいた行為だろうが、迷惑している人が必ずあるので、これは許されないことである。

週刊誌側の主張のように、当事者が当時からずっと迷惑しているということであれば、問題となっても仕方ない(=完全クロ)。

他方、タレント側の主張のように、(氏の家族や当事者も含め)誰も迷惑をしているという事実はないということであれば、問題にはならない(=完全シロ)。

その間のグレーな状況かもしれない。
・有名タレントだからということで、多少とも承知の上だった。
・当時はそうでもなかったが、今は嫌な思い出に変わった。
・週刊誌で報道されたほうが面白いし儲かるから、そういうことにした。
などなど・・・

いわゆる忖度によって、着地点が権力の強い側に出ることがあるように思うので、そのあたりにも配慮しながら、判断が下されることを望む。

PS. とにかく上記の如何にかかわらず、「ガキの使い」は毎週見ているので、これに松本氏が出なくなるなら残念だ。

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2024年の抱負

2024年を迎えました。

2022年3月に大阪市立自然史博物館を退職後、まもなく2年になります。2022年から2023年は生活がさらに大きく変わり、まだ安定していません。

2023年からは、年老いた両親のお世話、週1の追手門学院大学での講義、アメリカ農務省と共同の害虫調査が始まりましたが、可能な範囲内で継続できればと思っています。

2024年は出版事業を本格的に開始したいと考えています。2023年は「ことばの違和感」(初宿正典)だけでしたが、春までに2冊の出版を準備しており、年末までにはさらに数冊出せればと考えています。

Youtubeでの動画作成、音楽制作なども考えています。まだ「窓蛍舎」のチャンネル登録者が300人ほどですが、収益化できる1000人を目指しています。50歳を過ぎてアイディア創作力も枯れてきましたが、初心の戻ってがんばりたいと思います。

宮崎県綾での甲虫相解明、8月の京都での国際昆虫学会での発表、も楽しみにしています。

本年もよろしくお願いいたします。

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七十二候「寒蝉鳴」はヒグラシではない

暦のひとつに二十四節気七十二候がある。もともとは中国の戦国時代(紀元前5~3世紀)に作られたものが伝わった。二十四節気は初候・次候・末候に三分割され、それらが七十二候である(24×3=72)。しかし、日本の暦とは合わないため、江戸時代前期に渋川春海によって本朝七十二候が著わされた。二十四節気は元のまま現代も使われている。立春、春分、夏至などは馴染みがある。

渋川による二十四節気「立秋」の次候(8月12日から17日ごろ)は「寒蝉鳴」とされ、どの本を開いても「ヒグラシが鳴き始める」と解釈されている。でも1ケ月遅いと思う。ヒグラシは俳句でも秋の季語とされているが、出現期はアブラゼミやクマゼミとほとんど同じで、実際は夏のセミである。
中国の元の七十二候 では「寒蟬鳴」はさらに遅い末候(8月18から22日ごろ)となっている。

「寒蝉」はヒグラシではないと思う。そもそも、日本でいうヒグラシは日本固有種だ。

中国語で調べてみると、「寒蝉」は今も中国で使われていて、ツクツクボウシ属 Meimuna のこととある。

よってツクツクボウシ(松寒蝉 Meimuna opalifera)またはコマゼミ(蒙古寒蝉 Meimuna mongolica)が有力な候補であると考えられる。

後者は日本には分布しないが、韓国ソウルに8月後半に行った折、やや深い森で盛んに鳴いていた。市街地にはいなかった。

8月中旬でもヒグラシは鳴いてはいるが、「鳴き始める」との表記をするならば、「ツクツクボウシが鳴き始める」という解釈に変更すべきだろう。

※下記はコマゼミの鳴き声。Youtube動画:窓蛍舎チャンネルより。

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ミカンの自然史

ミカンはおいしい。いうまでもない。

ミカンについて、あれこれ書くことにした

ミネオラ

=45点

プラスポイント

やわらかく手でむける

種がない

味は甘い

ボリュームと値段は温州ミカンと同等

マイナスポイント

汁がじゅるじゅるこぼれる  

房に分けようとすると更にじゅるじゅるこぼれる

なので複数の房のままをかぶりつく。内袋は少し固め、できれば剥きたかった。

皮のごわごわ度:やわらかく手でむける20点

内袋:食えんことはない10点

食べるときの快適さ:種がないが、汁がじゅるじゅるこぼれる。5点

味:甘い、けっこう好き、20点

ボリューム:温州ミカンのサイズ,、5点

値段:ひとつあたり100円以下でお手頃、20点

分類:タンゼロ類(みかん類とグレープフルーツ類の交配)

原産地:アメリカ

栽培地:オーストラリア

アフォーラ

55点

40代しか食べたらあかんのかと思った(アラフォー)が、でもよく見たら「アフォーラ」だった。日本の温州みかんと同様、確かに外皮を手でむけるが、手がベトベトになる。味は甘さが強く酸味がなくてgood。オーストラリア産。防カビ剤があれこれ入ってる。

由来や分類については調査中。

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北海道地名はアイヌ語か?

Youtube上での情報だが、最近、(どちらかというと)右、すなわちナショナリスト系のYoutuberの方々の動画に、「アイヌ民族を北海道の原住民と認めてしまったこと」の如何を問う動きが多いように感じる。

たしかに遺跡を見ても、縄文時代は本州と共通しても、弥生時代の代わりに続縄文時代が次に続き、その後は東部やオホーツク地域ではオホーツク文化が、それ以外では擦文文化の遺物が産出し、アイヌ文化時代は本州でいう鎌倉時代に入ってからである。アイヌ民族は鎌倉時代にサハリン(樺太)から南下してきたという。

私は本州の地名が縄文時代から継続されていると考えているが、地名の不変性が同様に適用されるのであれば、北海道の地名も鎌倉時代以後のアイヌ民族が使っていたアイヌ語で説明するのは不自然ではないかという思いを抱いている

たとえば・・・

「ワ」:本州では「わだつみ」などが示すように水と関係する。北海道では「カムイワッカ」(神の水)のように水と関係する。

「シリ」:利尻、奥尻、国後など、島を示す接尾語であるが、「シリ」が「シマ」になった関連性を感じる。

いずれにせよ、もう少し探究が必要である。

だが、上記Youtuberらが主張するように、北海道は和人がアイヌの土地を室町時代から明治にかけて、強制的に奪って追いやったのではなく、もともと縄文人(本州と同系列の民族)がいたところを北から鎌倉時代にやってきたアイヌ民族が北海道を強制的に奪って追いやった、その後、和人が南からアイヌ民族を追い返した、という解釈も、可能なのかもしれないと思っている。

なので、北海道の地名は本州の地名と同じ視点から、解明を試みる必要があると思っている。

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関西人はなぜ関西弁を使うのか?

よく言われる質問で、私も遠征先で半年ほど前に聞かれ、相手方は「関西人のプライドみたいなもの?」との指摘だった。これはあると思う。

プライドとコンプレックスは完全に同一である。関西は東京に負けているというコンプレックスが存在するのは間違いない。なので関西出身の有名人が標準語をしゃべっていると、「魂を捨てた」とか言われる。

この半年間、このことを考えていた。

私の場合、関西以外の地でも、アクセントはやはり関西弁(いわゆる京阪神アクセント)である。ただし、「●●しはる(標準語:なさる)」「なおす(標準語:片づける)」などの関西独特の言い回しは極力、避けている。

つまるところ、「それで通じるから、そうしている」というのが私の場合の結論である。何か喋って、聞き返されることは無い。他の地方の方の場合、聞き返されたりすることもあって、標準語アクセントで会話をされているのではないだろうか。

関西出身の芸人がたくさん、全国放送で関西弁を「紹介」しているお陰もあるだろう。

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またアラスカに来よう

見渡すかぎりの草原で
スゲの白い綿毛に
ルリボシヤンマが飛んできた
何かを探して飛んできた

冷たい雪解け水で
育ったヤナギランが
風に揺れて咲いている
明日を信じて咲いている

大きな岩を押しのけて
山肌を削りながら
氷の河が流れてる
輝きながら流れてる

カエルも鳴かない 静かな沼で
ジープの走るエンジン音が
いつまでも響いてる
U字谷に響いてる

あくせくしてるだけの日々
都会の暮らしには疲れた
でもまたいつか ここに来よう
お金を溜めて ここに来よう

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